「退位礼正殿の儀」と平成の天皇陛下の「おことば」の意義
令和二年(二〇二〇)四月三十日と五月一日をもって、平成の天皇陛下の譲位(退位)と、新天皇陛下の即位から一年を迎える。一年前には予想もできなかった新型コロナ・ウィルスの流行という事態に、立皇嗣礼の儀も延期となり、昨年の風水害とともに、新しい「令和」の御代は、困難な時代となりつつある。
しかし、思い返せば、平成の天皇陛下も、その即位礼からまもなく、雲仙・普賢岳の噴火があり、以後、たびたびの地震・火山災害のたびに、皇后陛下と共に被災者を含む社会的弱者に寄り添われる、「平成流」と称される皇室のあり方を構築された。
その意味で、この機会に、平成の天皇陛下から、新天皇陛下への皇位継承の儀式、その中でも退位礼正殿の儀と剣璽等承継の儀・即位後朝見の儀を振り返っておきたい。そして、そこで語られた「おことば」から、平成・令和の天皇陛下が、いかなる天皇・皇室のあり方を示されているかを推察し、国民はどのようにそのお姿を受け止めるべきかを考えるきっかけとしたいと思う。
一、「退位礼正殿の儀」の構成とその意味
四月三十日に行われた「退位礼正殿の儀」は、実に約二百年前の江戸時代、光格天皇が行われた「譲位」以来の、近現代においてはじめての天皇がお元気なうちの皇位継承であった。
これは平成二十八年(二〇一七)八月八日に放映された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を受けての国民の声に後押しされた国会を中心とした関係各位の努力による「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の施行によるものであり、その儀式のあり方については、平安時代の『儀式』(貞観儀式)の「譲国儀」や、江戸時代の光格天皇の譲位の儀式などが参照された(「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典準備委員会(第二回)」宮内庁作成・提出資料1「歴史上の実例」、宮内庁ホームページにて公開)。
平安時代初期に編纂された『儀式』(貞観儀式)の「譲国儀」によれば、天皇が内裏から「御在所」に移り、そこで神璽・宝剣を持った内侍(女官)を従えて「南殿」(御在所の中央の建物)に座り、その横には皇太子が立ち、更に建物の南の庭には大臣以下の百官が並ぶ。そして天皇の「お言葉」を代読する「宣命大夫」が、皇位を皇太子に譲ることを百官に告げ、それによって、皇太子は「今帝」(新天皇)となる。百官がそれに応じ、退出すると、新天皇は「前帝」に感謝の拝舞を行い、退出する。それに神璽・宝剣をもった内侍たちも続き、皇位継承が完了する(佐野真人「平安時代の譲位の儀式」大江篤編『皇位継承の歴史と儀礼』臨川書店、久禮旦雄「上代の皇位継承」『藝林』六八巻一号)。このかたちは、近世の譲位に際しても行われており、光格天皇の譲位もおおむねこのかたちをとった(所功「後櫻町女帝の譲位式と『櫻町殿移徙行列図』」『京都産業大学日本文化研究所紀要』二三、同「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」『藝林』六六巻一号)。
しかしながら、このたび行われた「退位礼正殿の儀」は、皇居の宮殿 松の間において、三種の神器のうちの剣・璽と、御璽・国璽とともに立たれた天皇陛下と皇后陛下の後ろに、皇太子殿下と同妃殿下をはじめとした皇族の方々が立たれ、その前に国民の代表としての三権の長としての衆参両議長・内閣総理大臣・最高裁判所長官らが揃い、更に安倍晋三内閣総理大臣が「国民代表の辞」を述べ、続いて天皇陛下の「おことば」が述べられるというかたちをとることとなった。更に儀式が終了すると、天皇陛下は剣璽等とともに退出され、皇位継承はその日の午前0時を以て行われたということとなった(剣璽・御璽・国璽など、「皇室経済法」で「皇位と共にある由緒あるもの」と規定されるものは、翌日の「剣璽等承継の儀」において新天皇陛下が継承されることになる)。
ここでは、天皇が「位を退かれる」(退位)ことが強調されており、皇太子に「位を譲られる」(譲位)という、前近代の譲位では儀式の中心とされていた要素が見られなくなっている。なぜこのようなかたちをとることになったのかについては議論のあるところだが、各種報道によれば、「…(剣璽等を)新天皇に直接手渡すことを避け、憲法との整合性に配慮。国政に関する権能を持たない天皇が、自らの意思で皇位を新天皇に譲ったと受け止められないようにする」ためとされる(『毎日新聞』平成三十年三月二十日「退位儀式後、剣璽を保管場所に返却 憲法整合性配慮」)。「…憲法は、天皇の政治的権能を認めていない。政府が特に心を砕いたのは、「天皇の意思で皇位を譲ったとみられないようにすること」(首相官邸筋)だった」とする報道もある(『読売新聞』平成三十年二月二十八日「皇位継承のかたち (上)分けた儀式 憲法を重視)。つまり、『日本国憲法』第四条の「天皇は、…国政に関する権能を有しない」とする規定に基づき、国政に関する権能の一つとして皇位継承者(皇太子)への譲位を位置づけ、それを天皇自らが示すことはできないとするのである。これは「現行憲法の評価とは異なる次元の問題」とする憲法学者の意見もある(『産経新聞』平成二十九年二月二十日「正論」 麗澤大学教授 八木秀次「皇位継承の儀式における「課題」」)
しかしこれは、国民的合意の中で滞りなく皇位継承を行うことに熱心なあまり、少し考えすぎの議論のように思われる。そもそも『日本国憲法』第二条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とあり、『皇室典範』第二条には「皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える」として、(1)皇長子 (2)皇長孫 (3)その他の皇長子の子孫 (4)皇次子及びその子孫……と皇位継承の順序が明確に定義されている。そしてまた、今回の譲位自体は、前述のとおり「皇室典範特例法」によるものであるから、いずれも国会の審議を経た法律に基づくものであり、そこには天皇ご自身の意志が介入する余地はない。
今回の譲位の儀式そのものは、国民の感謝と喜びのうちにつつがなく終了した。そのこと自体は、譲位に関する法制度と共に、「将来の先例となり得る」(平成二十九年六月一日、衆院議院運営委員会での菅義偉官房長官答弁)ものであった。その上で、よりよい儀式のかたちについては、更に検討・模索する必要があろう。
二、「退位礼正殿の儀」における「お言葉」の意義
「退位礼正殿の儀」の日、私(久禮)は日本テレビの報道特別番組に出演し、「退位礼正殿の儀」の中継映像を拝見する機会を得た。その際、司会の藤井貴彦アナウンサーの求めに応じて「おことば」について感じたことを述べ、また後日、ABCテレビの「正義のミカタ」でも同様の内容をより詳しく述べた。ここではその内容を中心に、平成の天皇陛下(現在の上皇陛下)の「おことば」について解説を加えることとする。
改めて「おことば」の全文を以下に示す(宮内庁ホームページに全文掲載)。
「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。」
ここで注目したいのは、ご自身の天皇としての歩みを「これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たこと」を「幸せ」とされ、さらに「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民」への「心から感謝」を述べられている点である。
ここでの「信頼と敬愛」という言葉は、譲位から二年前の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」においても述べられている。
「…皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行なって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。…」
所功氏は、この「信頼と敬愛」という言葉を、平成の天皇陛下は、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」を意識して選ばれたのではないかと推測している。
「…拝聴した途端、私(所)は昭和21年(1946)元旦公表された「新日本の建設に関する詔書」の一節を想い起こしました。あの詔書は、俗に「天皇の人間宣言」などといわれていますが、そんな薄っぺらいものではありません。原文を通読すれば誰でもわかるとおり、冒頭に明治元年(1868)の「五箇条の御誓文」の全文を掲げ、「叡旨、公明正大、また何を加へん。……すべからくこの御趣旨に則り、新日本を建設すべし」との基本方針が示されています。その上で、文中に次のように仰せられているところにこそ、大きな意味があると思われます。「朕(天皇)と爾(なんじ)ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ…」つまり、天皇と一般国民との関係は、古来いろいろ変遷があったにせよ、あの4年近い苛烈な戦争に敗れても、常に相互の「信頼と敬愛」は変わっていない、と詔書で明言することのできるような固い絆で結ばれていたのです。…」(所功『象徴天皇「高齢譲位」の真相』ベスト新書)
所氏が論じられたように、退位礼正殿の儀の「おことば」と、「象徴としての務めについての天皇陛下のおことば」には、戦後の日本の皇室の出発点としての、父帝昭和天皇の「新日本建設の詔書」の内容をふりかえり、その精神を継承しつつ、現在に至っている思いを込められたものと推測し得る。
そしてまた、昭和天皇も、「新日本建設の詔書」について、祖父の明治天皇にはじまる、近代の皇室のあり方を受け継いでいくという思いが込められていることを、昭和五十二年の記者会見において、「……民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」とお話しになっていることは注目される(『陛下、お尋ね申し上げます』、高橋紘・鈴木邦彦、徳間書店)。
「五箇条の御誓文」とは周知のとおり、慶応四年=明治元年(一八六八)三月十四日に、明治天皇が自らの治世の基本方針を、由利公正・福岡孝弟・木戸孝允の起案・修正による、
一、廣く會議を興し萬機公論に決すべし
一、上下心を一にして盛に經綸を行ふべし
一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂け人心をして倦まざらしめん事を要す
一、舊來の陋習を破り天地の公道に基くべし
一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
の五つにまとめ、公卿・諸侯の前で神々に誓うかたちで示された。さらに数百人に及ぶ公卿・諸侯らは「奉答書」に署名するかたちで、これに従うことを誓約した(大久保利謙「五ケ条の誓文に関する一考察」同『大久保利謙歴史著作集1 明治維新の政治過程』(吉川弘文館)。
広く知られ、その後もしばしば参照される御誓文に対して、同時に、国民に対して出された「御宸翰」(億兆安撫国威宣揚の宸翰)については、特に戦後、顧みられることは少ないようである。だが、その中には、「…今般朝政一新の時膺(あた)りて天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば、今日の事朕躬(みずか)ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、…」と、明治維新の目的が、国民全てが満足してその所を得ることにあり、そのために最前線に立って苦難の道を歩むことの決意が述べられており、これはその後の皇室にも継承された姿勢であることがわかる。また、「往昔…朝廷の政、総て簡易にして此の如く尊重ならざる故、君臣相親みて上下相愛し、徳沢天下に普く…」と、かつての朝廷の制度は簡易であったため、皇室を過剰に尊重し、結果的に国民から遊離させることはなかったが、その後、制度が複雑になるとともに、過剰な尊重の習慣を形式化させることになった、としている。その上で、形式化したさまざまな慣習を打破し、国を富ませ列強に伍すために、天皇が行うことを助けてほしい、と述べられている(所功『「五箇条の御誓文」関係資料集成』原書房)。ここで、かつての簡素な時代の記憶として「君臣相親みて上下相愛し」と語られていることは重要である。まさにこれこそが、昭和天皇や平成の天皇陛下(上皇陛下)が重んじられた「相互の信頼と敬愛」の原型なのではなかろうか。
つまり、明治天皇は、かつて存在した皇室と国民の関係として、五箇条の御誓文と共に出された御宸翰で「君臣相親みて上下相愛し」と述べられ、昭和天皇は明治天皇の五箇条の御誓文を継承するものとしての「新日本建設の詔書」の中で「相互の信頼と敬愛」と記され、そしてまた平成の天皇陛下は、明治天皇・昭和天皇の精神を継承するものとして、二度の「おことば」において「信頼と敬愛」に言及されたものと思われる。
まさに、これは国民と共にある「平成流」と呼ばれる天皇・皇室のあり方が、決して特殊なものではなく、長い皇室と、皇室と共にある国民の歴史をふりかえりながら構築された歴史的重みのあるものであったことを示す「おことば」であったと言えるだろう。
「おことば」を述べられた後、陛下は松の間からのご退出に際し、立ち止まり、深く礼をされた。それは「おことば」の中にある「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民」に対して「心から感謝」を示されたものと思われた。果たして我々国民が、陛下からの感謝に値するだけの働きができたのか、そのお姿を画面越しに拝見しながら、強い反省の念が沸き起こってきたことを、今も忘れることができない。