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彼岸会と春分・秋分の日

令和2年9月21日

 昭和23年(1948)に制定された「国民の祝日に関する法律」をみると、「春分の日」「秋分の日」について、次のごとく定めている。
  春分の日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。
  秋分の日 祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。
 これは、春も秋も同一の趣旨であるが、それをわけて法文にしたのであろう。ここにいう「自然」や「生物」は単なる客体のモノではなく、「たたえ」「いつくしむ」対象とされている。また「祖先」も「なくなった人々」も単なる過去のヒトではなく、「うやまい」「しのぶ」対象とされている。私たちは自然の恩恵に感謝し、あらゆる生物のイノチを大切にしなければならず、また祖先の恩恵に感謝し、ゆかりある故人への思いを大切にしなければならない。そんなメッセージがこめられているのであろう。
 そして、これは戦前の「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」および「春季神殿祭」「秋季神殿祭」を衣替えしたものにほかならない。しかも、さかのぼれば古代以来の春秋お彼岸会と関係が深い。その初見は、平安初期の大同元年(806)、それより20年ほど前に皇太子(皇太弟)を廃され亡くなった早良親王(桓武天皇の弟君、追尊され「崇道天皇」)のために、桓武天皇の崩御(3月17日)に際して、諸国の国分寺で「春秋二仲月(旧暦の2月と8月)、別して七日金剛般若経(金剛般若波羅多経)を読ましむ」(『日本後紀』)という記事である。
 しかし、すでに『日本書紀』には神武天皇が「皇祖天神を祭りたまふ」とあり、また天武天皇10年(682)5月11日条に「皇祖の御魂を祭りたまふ」とみえる。従ってこのような祖先祭祀の伝統があったからこそ、やがて仏教的な彼岸会も行われるようになったと思われる。やがて、中世・近世の宮廷では、御所の一角(清涼殿の御黒戸)に歴代天皇の霊牌や念持仏を安置して、ご命日の法要なども営まれてきたのである。
 それが明治維新の際、いわゆる神仏分離令により、従来の歴代霊牌は東山の泉涌寺などへ遷された。そして明治2年(1869)にあらためて神祇官で歴代天皇の御霊代を招き祭り、天皇の御拝礼があった。ついで同11年6月、「春秋二季祭」を置き、「神武天皇を御正席とし、先帝まで御歴代(天皇)ならびに后妃以下皇親(皇族)」も「合祭」すると定められている。
 しかも、この時春秋二季(春分・秋分)の皇霊祭が、同6年以来の国家的な「祭日」に加えられた。それにより、全国の神社などでも一斉に祭典が行われるようになる。さらに同41年公布の『皇室祭祀令』で、この皇霊祭は「大祭」と定められ、特に祭典の中で東遊(楽師の歌舞)も奉奏されることになったのである。
 この春分と秋分には、皇霊祭に続いて神殿祭が行われた。その神殿には日本国中の「天神地祇」が祀られている。歴代天皇が古くから直接的な祖先神だけでなく全国の神々(「八百万の神」)を崇敬し、祭祀を行われてきたことは多言を要しない。それらは中世・近世に衰退し廃絶したものも少なくないが、明治維新の際、積極的に復興された。まず明治2年、神祇官に神殿を設けて、中央の座に宮中八神、西の座に歴代皇霊、東の座に天神地祇を奉斎している。ついで同4年、その三座で春秋二季の「御祈祭」が行われることになり、翌5年、宮中八神と天神地祇を合祀して一座とされた。
 やがて明治12年、春秋の御祈祭が春分と秋分に行われる「神殿祭」と定められ、その十年後から新築(現存)の宮中三殿の「神殿」において「天神地祇」が祀られるようになった。さらに同41年公布の『皇室祭祀令』により、春分と秋分の神殿祭は皇霊祭と同じく「大祭」と定められたのである。
 戦後の「祝日法」の制定に際しては被占領下ということもあり、従来の祝祭日名をそのまま踏襲することは難しかった。そのため春季・秋季の皇霊祭・神殿祭の日は単なる「春分の日」「秋分の日」となったが、これは名(旧名)を捨てても実(日取りと意味付け)を残そうとした当時の関係者の努力の結果といえよう。
 現在でも春分の日・秋分の日には、宮中においてそれぞれ「ご先祖祭」としての皇霊祭・「神恩感謝の祭典」としての神殿祭が黄櫨染御袍を召された天皇陛下により行われている(宮内庁ホームページ)。

(久禮旦雄)

【参考文献】
所功著『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』(PHP新書、平成15年)
所功著『天皇の「まつりごと」』(NHK出版新書、平成21年)
宮内庁HP「天皇皇后両陛下のご活動」「宮中祭祀」
https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html