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春季皇霊祭

令和3年3月21日

 毎年春分の日に宮中三殿の皇霊殿において行われる大祭。秋分の日の秋季皇霊祭と同じく、歴代天皇・皇族を祭られる祖先祭である。天皇陛下は午前10時、皇霊殿に出御され、玉串を奉って拝礼ののちお告文を奏される。続いて皇后・皇嗣・同妃が順に玉串を奉って拝礼されることになっている。
 皇室における祖先祭祀は、古くは陵墓が中心だった。それが、平安時代には御所において主に仏式が採られることになり、御黒戸(おくろど)という場所には歴代の位牌が安置されていた。明治を迎えると皇室においても神仏分離が行われ、位牌はすべて京都の般舟院と泉涌寺に移され、皇霊は明治2年神祇官神殿に祀られることとなった。続いて、明治4年9月30日、賢所同殿に遷座された。その後、同6年5月5日の火災により一時赤坂仮皇居に移されるなどを経て、22年1月9日、新造成った宮中三殿に奉祀され現在に至っている。
 春と秋に2度斎行されるようになったのは次のような経緯による。明治初年の皇霊祭祀は、歴代天皇の命日に「正辰祭」が行われていた。これは歴代ともなると相当の回数に上り、祭典に当たらない月は無く、もっとも多い9月には17日を数えるほどであり、これに皇族を加えると膨大であった。当時は祭祀官のみで行われていたとはいえ、これでは誠敬の至らぬことになりかねないと、明治7年の小河一敏の建議を受けて、皇霊祭として統合されることとなった。
 『明治天皇紀』には、明治11年6月5日に次のようにある。

春秋二季に皇霊祭を執行することを制定したまふ、去歳一月、歴代の皇后・后妃・皇親の霊を皇霊に合祀す、尋いで同年十月、綏靖天皇より後櫻町天皇に至る諸帝の式年祭・正辰祭を廃して、神武天皇及び後桃園天皇以下四天皇にのみ之れを行ふことと為したまへるが、更に毎年春分日・秋分日を以て春季皇霊祭・秋季皇霊祭を執行し、神武天皇より孝明天皇に至る諸天皇並びに后妃・皇親を合祭せらゝことと定めたまひ、是の日之れを公布し、又是の祭日を以て休日に加ふることを達す、其の祭式は四月三日執行の神武天皇例祭に準じて之れを行ひ、幣物・神饌等を増加することと為したまふ、

 こうして、春分・秋分の日に天皇親祭による皇霊祭が執り行われるようになり、合わせてこの日、太政官布告「年中祭日祝日の休暇日を定む」が改正され、春季皇霊祭・秋季皇霊祭は祝祭日に加えられて休日となった。
 そして、明治41年の皇室祭祀令により大祭として明文化されることとなる。
 ところで、春分・秋分の日にこの祭日が設けられたのはなぜかというと、もともとこの両日を中心に「彼岸会」と称される仏事が行われており、一般的にも「お彼岸」といい、祖先供養の日とされていたからであった。
 さかのぼれば『日本後紀』の、大同元年(806)3月17日に「崇道天皇の奉為に、諸国の国分寺僧をして、春秋二仲月別の七日に、金剛般若経を読ましむ」とある。
 なお、彼岸の行事は他国にはなく、日本在来の太陽信仰と祖先崇拝が、浄土思想と結びついて生じた日本独自のものである。この日、太陽が真西に沈むことで西方の極楽浄土を想い、それがやがて祖先供養の行事へと展開したと考えられている。
 「彼岸会」「皇霊祭」の伝統は、戦後の祝日には、春分・秋分の日として継承された。祝日法には、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ」とあり、名称が変わっても祖先祭祀の趣旨は存続している。
 最後に、皇霊祭と同日に行われる春季神殿祭(大祭)・秋季神殿祭(同)にも触れておきたい。神祇省に祀られていた八神と天神地祇は明治5年4月2日、宮中に遷座されることになり神殿が設けられ、これによって宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)が成立する。この神殿において、明治11年の秋季の皇霊祭と同じ日から、神恩に感謝し、国家・国民の平安を祈られるのが神殿祭である。
 祝日法の春分の日に見える「自然をたたえ、生物をいつくしむ」というのは、この神殿祭の趣旨に通じるものがあるのではないかと考えられる。

                                (橋本富太郎)
関連記事「彼岸会と春分・秋分の日」
参考文献
八束清貫「皇室祭祀百年史」『明治維新 神道百年史』神道文化会、昭和41年
『明治天皇紀』吉川弘文館、昭和45年
阪本健一『明治神道史の研究』国書刊行会、昭和58年
訳注日本史料『日本後紀』集英社、平成15年
所 功『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』PHP新書、平成15年
所 功『天皇の「まつりごと」』NHK出版新書、平成21年
「彼岸」『世界大百科事典』(Japan Knowledge)