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倭姫命と日本武尊の歴史的役割

令和3年4月21日

                             所 功

世界的に注目される「コメは命」

かつてゴールデン・ウィークに岐阜の田舎へ帰省中、わずか1週間で家の周囲はみごとな水田となり、ほどなく美しい若緑に染めあげられた。皇居の中にある吹上の御田でも、天皇陛下みずから4月上旬に米と粟の種播きをされ、5月中に苗を手植えされる。平成8年(1996)の宮中の歌会始(御題「苗」)で披露された皇后(現上皇后)陛下の御歌にも、「日本列島 日ごとの早苗 そよぐらむ 今日わが君も御田にいでます」と詠まれている。
この稲作=「お米」作りが、いま世界で注目されつつある。年々深刻化する地球上の食糧危機を救うには、収穫量が多く栄養価も高い米穀の増産が最も有効とみなされている。現に国連では、平成16年(2004)を「国際コメ年」と定め、”Rice is Life(コメは命)”という合い言葉を掲げて、その普及に努めている。また、欧米などでも、日本のおいしい高級米(特にSUSHI)の需要が急騰しているという。
その「お米」作りと最も関係の深い伊勢の神宮が創祀されたのは、3世紀後半ころの垂仁天皇朝とみられる。ついで、その神威を仰ぎながら全国統一を積極的に進められたのが、4世紀前半ころの景行天皇朝と推定される。
ここで、それらのために力を尽くされた皇女・皇子たちをとりあげよう。

 

ヤマトヒメノミコトの神宮創祀

古くから皇祖神(皇室の祖先神)と仰がれる天照大神は、前回述べたように、第10代崇神天皇が、それまで王宮内にお祀りされてきた形を改め、皇女の豊鍬入姫命に託して宮外へ遷された。その際、御鏡と御剣の代器を作らせて、宮中の賢所に置かれたという(斎部広成『古語拾遺』)。
ついで第11代垂仁天皇は、先帝が「神祇を礼祭(いやま)ひ、己を剋(せ)め躬を勤めて、日に一日を慎」むことにより「人民富み足り天下太平」となった。そのため、「今朕が世に当りても、神祇を祭祀ること、あに怠りあらんや」と仰せられ、特に天照大神の祭祀を異母妹の豊鍬入姫命から皇女の倭姫命に託し任された。
そこで、倭姫命は、天照大神を奉じて、五人の勇将らと隊を整え、倭の笠縫邑(桜井市)から出発された。そして菟田の筱幡に至り、なぜか近江(別伝では伊賀)・美濃を廻って、ようやく伊勢へ入られたのである。
すると、天照大神が「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜(うま)し国なり。この国に居らんと欲ふ」(この神風が吹く伊勢の国は、常に波の打ち寄せる海の近くにあり、大和の傍らの美しい国だから、ここに居たいと思う)と告げられた。よって、倭姫命は神勅に従われ、「その祠(やしろ)を伊勢の国に立て……斎宮(いわいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ」に至ったという(垂仁天皇25年紀3月丙申条)。
これが皇大神宮(内宮)の創祀伝承である。それを政治史的にみれば、大和朝廷による東方(東国)進出の拠点が伊勢に築かれたことを意味すると解される。
しかも、それが有力な武将を率いる皇族の女性(斎王)により行われ、遍歴の末、皇祖神に最も好ましい奉斎地の発見となったのである。その実年代は、およそ3世紀末に近いころとみられる(拙著『伊勢神宮』講談社学術文庫参照)。

 

ヤマトタケルノミコトの東奔西走

この倭姫命の同母兄にあたる次の第12代景行天皇は、『日本書紀』によれば、みずから九州にも東国にも遠征されたという。しかし、『古事記』によれば、勅命を奉じた倭建命が東奔西走して国内統一を飛躍的に前進させたとある。
ヤマトタケルノミコト(大和朝廷の武勇にすぐれた皇子)というのは、後の尊称であって、実名を小碓命(兄を大碓命)という。ミコトは、勅により九州平定に遣わされた際、天照大神に仕える叔母の倭姫命から賜った御衣・御裳で女性に変装して、「熊曽建」兄弟を討つことができた(『古事記』によれば、その帰途、山陰の出雲へ廻り「出雲建」も討った)という。
ところが、大和へ凱旋すると、父帝から再び東国の平定を命じられた。そこで、ミコトは途中「伊勢の大御神宮」へ参って、倭姫命から「草薙剣」などを賜り、相模で土豪の火攻めにあったが、その御剣によって切り抜けることができた。ついで、走水(浦賀水道)を渡って上総(千葉)へ渡ろうとされた際、暴風で軍船を出せなくなった。すると、同伴した妃の弟橘姫命が、みずから進んで海に身を投げ、神の怒りを鎮められたという。
さらに、蝦夷らを次々と帰順させて尾張まで戻られたミコトは、熱田の宮簀姫(国造の娘)に草薙の御剣を預けて伊吹山へ登られた。しかし、大蛇となった山の神に襲われて歩けなくなり、ようやく三重の能煩野(鈴鹿市)に辿り着いて亡くなった。そのとき、

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣  山隠れる 倭しうるはし ……愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も(大和は日本国中でもっともすばらしいところだ。重なり合う青い垣をめぐらしたような山々に囲まれた大和は実に美しい。……ああ懐かしいわが家のほうから雲が湧き起こってくるなあ)

と望郷の念を歌われた。しかもミコトの神霊は大きな白鳥と化し、大和から河内へと天翔ていったという。
このような大遠征は、景行天皇朝ころの様々な事績を、ロマンと悲劇性に満ちたミコト一人の英雄物語にまとめたのかもしれない。とはいえ、勅を承った男性皇族が先頭に立ち、神威を仰ぎながら命懸けで各地へ遠征して、およそ4世紀前半ころ、日本列島の大半を統一するに至ったことは、大筋において確かであろう。

 

オトタチバナヒメの”愛と犠牲”

ところで、妃のオトタチバナヒメは、愛する夫君のために犠牲となる際、「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」(あなたは相模の野原で燃え上る炎の中に立ち、私を救けてくださいましたね)と詠み、夫君に感謝の誠を捧げておられる。
ちなみに、上皇后陛下の美智子さまは、昭和20年(1945)小学校5年生のころ(疎開先で)、この物語を読んで深く感動された。その際、「いけにえという酷い運命を、進んでみずからに受け入れながら、おそらくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに……強い衝撃を受けました。……愛と犠牲という二つのものが……一つのものとして感じられた」「愛と犠牲が不可分なもの」であることに気づいた、と語っておられる(平成10年『橋をかける―子供時代の読書の思い出―』すえもりブックスなど)。
わが国の統一史上には、いろいろな人々がさまざまに関わった。とりわけこのような皇族たちの”愛と犠牲”が大きな役割を果たしていることを、忘れてはならないであろう。  (所  功)

 

補注 倭建命葬送の誄歌

『古事記』には、倭建命が亡くなられた後、その后や皇子たちが陵を作り、涙を流して

なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に
匍(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)

と詠み、その後、命の神霊が白鳥となって飛び去ったのを追いかけて、更に

浅小竹原(あさぢのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
海処(うみが)行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海處はいさよふ
浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ

と歌ったとし、更に「今に至るまで其の歌は、天皇の大御葬に歌ふなり」と記している。
平成元年(1989)2月24日に行われた昭和天皇の「大葬の礼」では、葬場殿と武蔵野陵において、宮内庁の楽師たちにより、この歌が誄歌(しのびうた・るいか)として和琴の演奏とともに奏された。これは明治天皇の大葬の際、当時の宮内庁楽部が古い楽譜を調査し、まとめられたものである。(久禮旦雄)

参考文献
所功「倭建命葬送の誄歌」(『別冊歴史読本 『古事記』『日本書紀』総覧』平成元年、新人物往来社→『所功 未刊論考デジタル集成 第1巻 古代ヤマト国家形成史』令和3年、方丈堂出版 収録予定)