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皇統の断絶を救われた継体天皇と手白香皇后

令和3年7月1日

                                   所  功
 今も難しいお世継ぎ問題

 皇室の皇統は、皇位の継承有資格者が居られなければ続いていかない。その継承者は古来「男系の男子」が原則(男系の女子も公認)とされてきたが、現在の該当者は僅かしか居られない。これは20年来の難題である。
 具体的に振り返ってみると、平成15年(2003)12月から当時の皇太子妃殿下(現皇后陛下)が公の場に出られなくなった。その原因について、皇太子殿下(現天皇陛下)は、宮内記者との会見において、「雅子は……世継ぎ問題についても様々な形で大きなプレッシャーが掛かっていました。幸い(平成13年12月に)子どもが生まれ……ましたが、公務と育児の両立……様々な要望に応えようと努力していた中で、疲労が蓄積していったのではないかと思います」と述べておられる。
 また、欧州3か国に単独お出ましの前と後(同15年の5月と6月)の記者会見でも、皇太子殿下は雅子妃殿下の御心労と御公務について率直な見解を示された。それは、これを機に、皇室全体のあり方を考え直すよう訴えかけられた重大な問題提起と受けとめる必要がある。
 そこで、あらためて皇室の長い歴史を振り返ると、さらに深刻な危機が何度もあった。とりわけ、今も難しいお世継ぎの有資格者がほとんど居られなくなった5世紀末前後の30年余りは、まさしく皇統断絶の瀬戸際に立たされていたのである。

 仁徳天皇系の男子が4世孫で断絶

 前述の第21代雄略天皇は、西暦479年に崩御された。しかし、その後を継がれたのは、白髪皇子と称された清寧天皇であるが、御子を儲けておられない。そのため、皇統の血縁者を各地に捜し求めたところ、清寧天皇の再従兄弟にあたる2人の皇子が、播磨(兵庫県)に隠れ住んでいた。雄略天皇のために殺された市辺押磐皇子の遺児で、兄を億計(おけ)王、弟を弘計(をけ)王という。
 このうち、初め兄の億計王が皇太子に立てられた。けれども、清寧天皇の崩御(484年)直後、億計王は自分よりも勇気のある弟の弘計王が即位すべきだと言い、弘計王は年長の兄が天皇になるべきだと言って、お互いに譲り合い埒(らち)があかない。そこで、二人の姉とも叔母とも伝えられる飯豊青皇女が、とりあえず政治を預り、まもなく(485年)弘計王が、諸臣の要請に応じて即位されるに至った。顕宗天皇である。
 しかし、この天皇は在位わずか二年半で崩御された。そこで、488年、兄の億計王が即位して仁賢天皇となられるに及び、父の仇ともいうべき雄略天皇の皇女=春日大娘を皇后に迎えて、その間に1男6女をもうけられた。これによって、お世継ぎ問題は一段落したかにみえる。
 ところが、その1男の小泊瀬皇子は、498年、即位して武烈天皇となられ、8年在位された。けれども、「太子ましまさず」(『古事記』)、あらためて皇嗣を探さなければならないことになった。しかも『日本書紀』には、この天皇が悪逆の限りを尽くしたごとく書かれている。
 ただ、それらは余りにも現実離れしており、おそらく古代中国の夏・殷を滅ぼした暴君の桀・紂になぞらえて、仁徳天皇以降の皇統がこの4世孫(古代には子を一世と数えるから4世は玄孫)で途絶えた原因は、当代が暴君だったからだ、と理由づけるための誇張記事であろうとみられる。

 応神天皇5世孫による皇位の継承

 ともあれ、この武烈天皇が506年に崩御されたとき、「男も女も無く、御嗣絶ゆべき」危機にあった(『日本書紀』、以下同)。そこで、大伴金村などが相談のうえ、まず丹波の桑田にいた仲哀天皇五世孫の倭彦王を迎えようとしたが、恐れをなして逃げ去ったという。
 よって、翌年早々、再び協議のうえ、越前の三国にいた応神天皇五世孫の男大迹王(をほどのきみ)(彦太尊)を迎えに行くと、その王は「帝の坐すがごとく」泰然自若として、諸臣の要請を容れ践祚された。第26代の継体天皇である。
 この天皇について、『古事記』には「品太王(ほむたのきみ)の五世孫、袁本杼命(をほどのみこと)、近淡海国より上り坐さしめ、手白髪命(たしらかのひめみこ)に合せまつりて、天下を授け奉りき」とある。また『日本書紀』にも「誉田(応神)天皇の五世孫なり。彦主人王の子にして、母を振媛(ふりひめ)といふ。振媛は活目(いくめ)(垂仁)天皇の7世孫なり」と記されている。
 そのうえ、『釈日本紀』所引「上宮記」には、「几牟津和希王(ほむつわけのきみ)」(応神天皇)の皇子「若野毛二俣王」から五代目の「乎富等大公王(をほどのおおきみ)」(継体天皇)までの詳細な系譜が引かれている。この「上宮記」は、記紀より古い推古天皇朝の成立と認めて差し支えない。
 すなわち、仁徳天皇以降の男系皇統は、4世孫の武烈天皇で途切れてしまった。けれども、その皇統は応神天皇の五世孫にあたる継体天皇により、かろうじて継承されたのである。しかも、この天皇は先に尾張連草香の娘「目子媛(めこひめ)」を娶っておられたが、58歳で即位してから武烈天皇の妹「手白香皇女」を納れ、皇后に立てられた。この仁徳天皇4世孫にあたる手白香皇后を中心に考えれば、そこへ継体天皇が入婿されたことにもなろう。

 即位20年目にようやく大和入り

 このように見てくると、すでに5世紀末から6世紀初めの当時、皇位を継ぎうるのは、皇統に属する5世以内の男子でなければならず、またその皇后(正妃)も皇族の女子を迎えることが望ましい、と考えられていたことがわかる。その要件を何とか満たされたのが、継体天皇と手白香皇后にほかならない。
 この天皇は、曾祖父の「太郎子」が息長君・三国君などの祖と伝えられており(『古事記』)、古くから息長(おきなが)氏と関係の深い近江で生まれ、越前で育ったとみられる、無名の皇族であった。
 そのため、長らく大和へ入ることができず、初め河内の樟葉宮(くずはのみや)(大阪府枚方市楠葉)に留まり、ついで五年目、山背の筒城(つづき)(京都府綴喜郡)、さらに12年目、弟国(おとくに)(京都府乙訓郡)へ遷って、践祚から20年目の526年、ようやく大和の磐余(いわれ)玉穂宮(奈良県桜井市池之内あたり)へ入ることができた。しかも、その翌年には、筑紫の国造磐井(いわい)が新羅と結んで大和の朝廷に叛逆を謀ると、直ちに物部氏を遣わし降伏させておられる。
 かように、継体天皇は、即位後も北河内・南山背を転々としてから、何とか大和入りを果たされたが、その後も内政外交に苦労を重ねられた。しかしながら、崩御の前年(530年)の詔には、「朕帝業を承くこと今に24年、天下清み泰(ゆたか)にして内外に慮無し。土地膏捜え穀稼実有り」と評価したうえで、それに慢心せず「人をして廉節を挙げしめ……朕が身にいたりてあに慎まざらんや」と自らを誡めておられる。

補注 継体天皇の系譜を記す『上宮記』の史料的価値
 『日本書紀』が欠く継体天皇の系譜を記す『上宮記』とはいかなる書物か。残念ながらそれ自体は散逸して残っていないが、その一部が逸文として伝えられている。
 正和3年(1314)成立の『聖徳太子平氏伝雑勘文』には、「凡そ上宮記三巻は太子の御作也。‥‥平等院の経蔵に之あり‥」と記されている。これにより「上宮記」は「上宮太子」と呼ばれた聖徳太子(厩戸皇子)が編纂された記録、あるいは聖徳太子の伝記と考えられている。
「上宮記」「一云」にみえる系譜は、継体天皇について「意富富等王」「乎富等大公王」と表現が統一されていないため、それ以前に存在していた複数の系譜をまとめて記したものと考えられる。また、後半部分において、継体天皇の母君(垂仁天皇七世孫の振媛)が夫の彦主人王(汙斯王、応神天皇の四世孫)の薨去ののち、幼き日の継体天皇(男大迹王・乎富等王)を連れて故郷に戻り養育したという記事などは当時の母方での養育のかたちを物語る貴重な記述である。このエピソードは『日本書紀』にも記されており、共通する史料に拠ったか、『日本書紀』が「上宮記」を参照していたと推測されている。
【参考文献】
田中卓「『上宮記』の校訂と解読」同『田中卓著作集2 日本国家の成立と諸氏族』(国書刊行会、昭和61年)
水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書、平成13年)
関根淳『六国史以前 日本書紀への道のり』(吉川弘文館、令和2年)
                              (久禮旦雄)