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元明女帝の千三百年祭に寄せて

令和3年12月29日

 
                                    
                      (道科研伝統文化研究プロジェクト室)所  功

 飛鳥・奈良時代には、六方八代の女帝が出現した。そのうち、四方五代目の元明天皇は、養老5年12月7日(ユリウス暦721年12月29日、グレゴリオ暦722年1月2日)数え61歳で崩御されている。
この女帝の千三百年祭(新年1月2日)に先立ち、天皇・皇后両陛下は、12月17日、皇居の御所において丸山裕美子愛知県立大学教授から、御事績の御進講を受けられた(近年、女帝の式年祭御進講には女性の研究者が選ばれ、平成25年の後桜町天皇二百年祭には所京子聖徳学園大学名誉教授が拝命している)。
 その式年祭にちなんで、神社新報社からの依頼により久禮旦雄京都産業大学准教授の執筆した「元明天皇の御事績」が同紙令和4年元日号に掲載された。それをより多くの方々に御覧いただけたらと思い、同紙の元原稿データを「ミカド文庫」に掲載する。
                            (令和3年〈2021〉12月27日記)

元明天皇の御事績
                          京都産業大学准教授 久禮旦雄

 第43代元明天皇の諱は阿陪(阿閉)、和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫天皇である。斉明天皇7年(661)に第38代天智天皇の第四皇女として御誕生になった。母は大化改新に功有った蘇我倉山田石川麻呂の娘、蘇我姪娘である。天武天皇4年(675)には、十市皇女(天武天皇皇女、弘文天皇妃)とともに伊勢神宮を参拝されている。その後、天武天皇と皇后鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の皇子である草壁皇子の妃となられ、珂瑠皇子(のちの文武天皇)、氷高皇女(のちの元正天皇)、吉備皇女(のち長屋王妃)を儲けられた。
 持統天皇3年(689)に草壁皇子が薨去されると、持統天皇が正式に即位され、のち、珂瑠皇子(文武天皇)に譲位された。大宝元年(701)には文武天皇が首皇子(のちの聖武天皇)を儲けられている。しかし、慶雲4年(707)に天皇は病に倒れられ、崩御された。
 草壁皇子の薨去の後も、阿陪皇女の地位は「皇大妃(皇太妃)」とされ、独自の生活拠点として「皇太妃宮」の経営を行われていたことは『続日本紀』の記事や藤原京跡出土の木簡史料から明らかにされている。また、慶雲4年(707)には草壁皇子の薨去の日を国忌(天皇の御命日)に入れることとなり、天皇に準ずる扱いを受けた(正式に岡本御宇天皇と追贈されるのは淳仁天皇朝)。これにより阿陪皇女の地位も皇后・皇太后に準ずるものとなり、持統太上天皇崩御の後は、文武天皇の後見役としての役割を果たされていたらしい。
『続日本紀』にみえる元明天皇即位の際の詔では、文武天皇が病に倒れ、「暇間得て御病治めたまはむと」して母君への譲位の意志を示されたが、阿陪皇女が「朕は堪へじ」と逡巡している間に崩御されてしまったため、その遺詔に基づき「此の重位に継ぎ坐す」ことを決意したと即位の経緯を説明している(『続日本紀』慶雲4年7月壬子条)。
 天皇の御製「ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おほまえつきみ) 楯立つらしも」とそれに応じての御名部皇女(元明天皇の同母姉)の「我が大君 物な思ほしそ 皇神の 嗣ぎて賜へる 我がなけなくに」(共に『万葉集』巻1)は、即位礼で右大臣の石上(物部)麻呂が大楯を立てる所作をしたことを踏まえ、即位直前の不安と自負を歌われたものであろう。
 即位後の元明天皇の御事績としては、和銅3年(710)の平城京遷都がある。その際の詔は、隋の文帝の大興城(長安)造営の詔の内容をふまえつつ、独自の表現として「衆議忍び難く」とあることが注目される(『続日本紀』和銅元年2月戊寅条)。前後の文章から推測するに、天皇は遷都を疑問に思うが、太政官の貴族たちが強く主張するので認める、というお気持ちを示されたものと思われる。
 元明天皇が遷都を躊躇われたのは、持統天皇8年(694)の藤原京遷都からまもなくのことで、再びの造営と遷都が民衆に負担となることを配慮されたのであろう。この遷都は、大宝2年(702)の遣唐使が、帰国後、唐の長安が北方に宮を持つかたちであり、中央に宮を置く藤原京とは大きく異なることを報告したためと指摘されている。ある程度の負担を考えても、唐を模範とした国家運営を行わなければいけない時代であった。なお、新都造営に関わる民衆への給与(雇役)の支払いに用いられたのが、その前年に武蔵国からの和銅献上を受けて鋳造・発行された和同開珎である。
 このような、中国的な律令制度に基づく統治を行われる一方、元明天皇は日本の歴史や地方の特色にも関心を払われていた。和銅5年(712)に太安万侶が撰上した『古事記』の序文(上表文)には、元明天皇が「旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして」、かつて天武天皇の命により稗田阿礼が誦習していた「帝皇日継及び先代旧辞」を安万侶に撰録するように命じたという。その翌年には、地方行政の単位である郡郷の改称とともに、各地の産物、土地の肥沃、山川原野の名称の由来、古老の伝える旧聞・異事の報告を全国に命じている。これに応じて提出されたのが、いわゆる『風土記』(古風土記)である。
 和銅7年(713)6月、首皇子は、元服とともに皇太子となられた。しかし翌年、元明天皇は皇太子は「年歯幼く稚くして」未だ天皇の政務を行うのは難しい(『続日本紀』霊亀元年9月庚辰条)として自らの娘の氷高皇女に譲位された(元正天皇)。以後は太上天皇としてその後見役を務められた。
 養老5年(721)に病に倒れられた際には、自らの枕許に右大臣の長屋王と参議の藤原房前を召し、自らが崩じた後は火葬とし、天皇も貴族・官僚たちも普段通り政務を行うこと、しかし天皇に近侍する人々や衛府は不慮の事態に備えて警備を厳しくすることを告げられ、後日、改めて薄葬(葬儀・山陵の簡略化)を命じられた。
 同年12月7日、61歳で崩御されると、政治的混乱を未然に防ぐため、東国との境界に置かれた不破・鈴鹿・愛発関の封鎖(固関)が行われた。元明天皇が譲位後も、その政治的な力を保持し続けられたことを物語る出来事とされる。
※大宝律令以後、基本的に皇子は親王、皇女は内親王とされるが、ここでは皇子・皇女で統一した。