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危機を救われた孝謙=称徳女帝の宿命と苦慮

令和4年1月1日

                                     所 功
万一に備える皇位継承の在り方

 「皇室典範」は、明治22年(1889)2月11日、「大日本帝国憲法」と並ぶ近代日本の根本法典として制定された。それが戦後まもなくGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、憲法と一緒に作り直すことを余儀なくされ、昭和22年(1947)5月3日、新憲法の下の一法律として新典範の施行をみるに至ったのである。
この新典範では、旧典範と同じく皇位継承の資格を「皇統に属する男系の男子」に限定しながら、旧典範と異なり側室の庶子による継承を否定した。しかも、その半年後、GHQの皇室財産凍結課税政策に対応するため、昭和天皇の直宮(秩父・高松・三笠の三家)を除く11宮家の51人が皇籍離脱を余儀なくされ、皇族が激減した。
そのうえ、新典範も皇族間の養子を認めないので、すでに嗣子(相続する子)のない秩父宮家、高松宮家は消滅し、常陸宮家もいずれ廃絶せざるをえない運命にある。残る三笠宮家も高円宮家も次世代は女子のみであり、とりわけ天皇陛下(61歳)には皇女のみ、また秋篠宮(56歳)にも一男(15歳)と一女(27歳)しかおられない。
したがって、憲法自体に「皇位は世襲」と明記している以上、大和朝廷以来の「皇統」に属する皇族が末永く「皇位」を安定的に継承してゆかれるよう、早急に現行の典範を改正する必要がある。ただ、その場合、「皇位」の継承有資格者は、古来「男系」で貫かれ、大多数「男子」であり、現行の典範にも定められる「男系の男子」を尊重しなければならないが、二代先まで見据え万一に備えて「男系の女子」も公認しておく必要があろう。

 

初の女性皇太子から二度の即位

このような「皇統」「皇位」の歴史を振り返えるとき、最大の危機を迎えたとみられるのが、奈良後期の孝謙=称徳女帝の御代にほかならない。
前回紹介した聖武天皇には、光明皇后(正室)との間に生まれた基王が夭逝した同じ年(728)、県犬養広刀自夫人(側室)との間に安積親王が生まれている。けれども、天皇は嫡子(正室の子)への継承を重んじ、10年後の天平10年(738)、もはや皇后(38歳)に皇子の誕生不可能とみて、基王の姉の阿倍内親王(21歳)を史上初めての女性皇太子とされた。
従来の女帝は、皇后か皇太子妃だった寡婦(元正女帝は未婚)が、しかるべき皇子の成長を待つ間、いわば中継ぎ役を果たされたことになる。しかし、この阿倍内親王は、異母弟の安積親王(11歳)などを抑えて皇太子に立てられ、11年後の天平勝宝元年(749)、父帝(49歳)から譲位されるに至った。思いがけない運命を担われることになったのである。
この孝謙女帝朝には、藤原仲麻呂(光明皇太后の甥)が大きな権力を振るうようになった。とりわけ7年後(756)に崩御間近い聖武上皇(56歳)により独身女帝の皇太子として定められた道祖王(新田部親王の皇子)を、翌年廃したのみならず、代わりに自分の息子の元妻を再婚させた大炊王(舎人親王の皇子)を皇太子に立て、翌年の天平宝字2年(758)、女帝から大炊王(26歳)=淳仁天皇への譲位を実現している。ただ、前女帝の不満をそらすためか、わざわざ「宝字称徳孝謙皇帝」(前年に「天下大平」の宝字が出現した瑞兆と、孝養と謙譲の美徳を兼ね備えた女帝)という最上級の尊号を奉っている。
ところが、まもなく天平宝字5年(761)、孝謙上皇(44歳)は、近江の保良宮(石山寺近く)で若い看病僧の道鏡禅師(29歳)と出会い、段々と寵愛されるようになった。しかも翌年、その噂を聞いた淳仁天皇から忠告を受けると、出家して身の潔白を主張すると共に、「但し政事は、常祀・小事のみ今帝が行ひ給へ、国家の大事と賞罰の二柄は朕が行はん」(『続日本紀』)と宣告されている。それに対して危機感を強めた仲麻呂(恵美押勝と改称)は、同8年(764)、上皇に謀反を企てたが、未然に発覚して誅滅され、淳仁天皇も淡路へ配流されている(翌年崩御)。
そこで、孝謙上皇(47歳)は、再び即位された(重ねて宝祚を践むので重祚という)。これ以降は称徳女帝と称するが、すでに出家の身であり、在位中も仏教色が極めて強い。例えば、翌年(天平神護元年)11月、最も神秘的な大嘗祭にすら、僧侶も参列を許され、続く豊明節会(饗宴)の際、次のごとく弁明しておられる。
朕は仏の御弟子として菩薩の戒を受け……上つ方は三宝に供へ奉り、次には天社・国社の神等をもみやびまつる。……経(仏典)を見れば、仏の御法を護りまつるは諸の神たちにいましけり。故にこれを以て、出家人(僧侶)も白衣(俗人)も相雑はりて仕へ奉るに、あに障る事あらじと念ほしてなん、本(従来)忌みしが如くに忌まず……。

 

 法王道鏡と忠臣和気清麻呂

重祚以後の称徳女帝は、ますます道鏡を優遇された。すでに大嘗祭の前月、紀伊行幸の帰途、道鏡の出身地(大阪府八尾市)に立ち寄って「朕が師大臣禅師の、朕を守り助け賜ぶ」により「太政大臣禅師の御位(特例官職)を授け」、ついで翌年(766)には、「朕が大師に法王の位(特別位階)を授け」ておられる。
そのため、周辺の人々も「法王道鏡」を、あたかも天皇のごとく扱うようになった。そのために道教は、神護景雲3年(769)の正月には、平城宮で女帝と共に大臣以下の「拝賀」を受けており、彼自身「鸞輿」(天皇の乗物)を用い、「衣服・飲食、もっぱら(天皇の)供御に擬ふ」に至った。そのうえ、まもなく大宰府の主神から宇佐八幡の神託と称して「道鏡を皇位に即かしめば天下太平ならん」と奏上するに及んだ。これは当時、大宰帥(長官)であった弓削浄人(道鏡の弟)が仕組んだことであろう。
すると、さすがの女帝も、法王道鏡を頼みとしながら、彼への譲位なぞ夢想だにしておられなかったので、ただちに信頼する女官の法均尼(和気広虫)に相談して、神託の真偽を確かめるため、尼の弟で近衛将監の和気清麻呂(36歳)を宇佐へ遣わされた。そこで、あらためて清麻呂が八幡大神に祈り賜わった託宣は、次のようなものである(『続日本紀』)。
(イ)我が国家、開闢以来、君臣(の分)定りぬ。臣を以て君となすこと、未だ有らず。天つ日嗣(天皇)は必ず皇緒を立てよ。
(ロ)無道の人(道鏡)は早く掃ひ除くべし。
このような託宣の復奏には、決死の覚悟を要したであろう。事実、これを聞いた道鏡は、激怒して清麻呂を殺そうとしている。しかし、女帝はむしろ(イ)によって、過大に重用した道鏡の野望を抑えることができると、内心安堵されたであろう(拙著『和気清麻呂公略伝』護王神社刊)。ただ、(ロ)のように道鏡を排除することは忍び難く、これは清麻呂が神託にかこつけた「非道な妄語」だと受け取られたのかもしれないが、おそらく道鏡を宥(なだ)める意図もあって、清麻呂を大隅(法均尼を備後)へ配流することにより一命を救われたのであろう。まさに苦渋の処分であったにちがいない。
その翌年(770)、6年前に仲麻呂の乱で誅された人々を供養するためもあって、木工たちに作らせた小さな木製の「百万塔」が出来上がると、奈良の十大寺に十万基ずつ奉納された。それからまもなく、女帝(53歳)は病のため崩御されるが、その間際に皇太子として白壁王(62歳)を指名された。王は天智天皇の孫(志貴皇子の子)にあたり、従来の天武天皇系と異なる。けれども、その妃が女帝の異母妹の井上内親王であるから、かろうじて聖武天皇の血縁を繋ぐことができると判断されたのであろう。これも、宿命の女帝が苦慮の末に下された英断にほかならないと思われる。

 

補注 後世から範とされた孝謙=称徳天皇の御事績
平安初頭成立の『続日本紀』には、称徳天皇の後に即位された光仁天皇について「勝宝以来、皇極弐无く、人彼此を疑ひて、罪ひ廃せらるる者多し。天皇(光仁天皇=白壁王)、深く横禍の時を顧みて、或は酒を縦にして迹を晦す。故を以て、害を免かるること数なり」(光仁天皇即位前紀)とあり、孝謙=称徳天皇の治世は政争により罰せられる皇族・貴族が多かったとする。孝謙=称徳天皇の治世が政治的に混乱しており、後世から批判的にみられていたというかつての評価は、おそらくこのあたりを源流とするものであろう。しかし近年、必ずしもそうではないことが指摘されている。
平安中期の源高明の儀式書『西宮記』には、天皇が即位・朝賀の際に召される礼服を「赤大袖」の、いわゆる袞冕十二章とされるのに続いて、「女帝御服、白御衣」とされている。これは平安時代以降、男帝は中国風の礼服を召されるようになったが、『西宮記』では称徳女帝の例が書きとどめられたため、本来男女に関係のない「白御衣」が女帝の先例として理解されていたことになる。江戸時代の女帝の即位に際してはこの先例が実際に適用された。
また、平安時代以降の年中行事の御斎会は、正月8日から14日まで大極殿に僧侶を招き、金光明最勝王経を講説し、夜には吉祥悔過を行う行事であるが、その創始は称徳天皇朝である。この行事では、通常天皇が御される高御座に厨子に納められた盧遮那仏が安置され、大極殿は法会の場となる。ここには東大寺の大仏(廬舎那仏)を造立された父帝の信仰を継承された称徳天皇の御意志が強く反映されている。そして御斎会は室町時代に途絶するまで続いている。
孝謙=称徳天皇の治世は、決して特殊な時代ではなく、他の歴代の天皇と同様に、継承・参照すべき御事績を多く残された天皇の時代として、長く認識されていたのである。
なお、称徳天皇の大嘗祭について『続日本紀』は僧侶も参加する特異な様相であったとしているが、平成16年(2004)の奈良文化財研究所の調査により明らかになった大嘗宮のかたちは、それ以外の大嘗宮とほぼ同じかたちであったという。
〈参考文献〉
武田佐知子・津田大輔『礼服  天皇即位儀礼や元旦の儀の花の装い』(大阪大学出版会)
大津透「天皇制唐風化の画期」同『古代の天皇制』(岩波書店)
米田雄介「礼服御冠残欠について―礼服御覧との関連において―」同『正倉院宝物の歴史と保存』(吉川弘文館)https://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/17/pdf/0000000113
吉川真司「大極殿儀式と時期区分論」『国立歴史民俗博物館研究報告』134
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1476&item_no=1&page_id=13&block_id=41
奈良文化財研究所「平城宮中央区朝堂院の調査」
https://www.nabunken.go.jp/fukyu/img/2004/1211/heijo_376.pdf
奈良文化財研究所「特別史跡平城宮跡 大嘗宮」
http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/7692/1/BB29162231.pdf

(久禮旦雄)