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聖代と仰がれる寛平の治をリードされた宇多天皇

令和4年4月1日

                                      所 功

  源姓に降り復籍して即位

 前十年(平成24年)「皇室典範に関する有識者会議」の学識者ヒアリングで、「皇位継承の在り方」について管見を講述した。その準備中、あらためて「皇位」とか「万世一系の天皇」とは何かを考えたが、結局、「皇統一系とは、天皇位が必ず『皇族』に籍を有せられる方によりて継承され……皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことがないという意味」(村尾次郎博士『よみがえる日本の心』日本教文社刊)と解するのが最もふさわしいと思われる。
 けれども、そのような原則の例外として、第59代宇多天皇がおられる。この天皇は貞観9年(867)、時康親王(仁明帝庶子)と班子女王(桓武帝庶孫)の間に第七子定省王として誕生されたが、それから20年近くは皇位と無縁に等しい存在にすぎない。なぜなら、皇位は、祖父の仁明天皇から伯父の文徳天皇を経て、藤原北家嫡流の良房と基経を外戚とする清和天皇から陽成天皇へと承け継がれたからである。
 ところが、太政大臣の基経は、元慶8年(884)、自分の意に逆らう若い陽成天皇の乱行を咎めて退位させ、高齢で温厚な時康親王を光孝天皇として推戴した。そこで、光孝天皇は基経に遠慮して、皇子らが皇位への望みを持たないよう、全29人を臣籍に降して、定省王も源朝臣定省の氏姓を賜った。しかし、3年後の仁和3年(887)、臨終間際の光孝天皇(58歳)が、尚侍・藤原淑子(基経の妹)を養母としていた源定省(21歳)への譲位を懇願されると、基経(52歳)も渋々認め、直ちに皇族(親王)への復籍がはかられ、宇多天皇として践祚されたのである。
 念のため、次の第60代醍醐天皇は、父君が臣籍にあった仁和元年(885)の生まれである。しかし、父帝の即位に伴い皇子として親王となり、やがて皇太子に立ち登極されたのであるから、これを異例とするいわれはない。

 「阿衡{あこう}」の試練と「神国」の敬拝

 この基経による光孝・宇多両帝の擁立を、約330年後に慈円の『愚管抄』は「藤氏の三功」として評価する。しかし、結果的に宇多天皇は立派な聖主となられるが、基経の言動は自身と一門の都合で皇位継承に介入したものといわざるを得ない。
 なんとなれば、基経は宇多天皇が8月に践祚されても太政官へ出仕せず、新帝の様子を窺っていた。そこで天皇は11月の即位式直後、基経に協力を求めるため「万機に関り白せ」との詔書を出し、閏11月あらためて参議・橘広相の起草になる「阿衡の任を以て卿(基経)の任と為すべし」との勅書を下された。
 ところが、天皇は一方で、近臣に現状改革の「意見封事」提出を求めるなど、親政(親ら政をしろしめす)への意欲を示された。すると基経は、翌年(888)2月から、勅旨を曲解して、「関白」に擬えられた中国の「阿衡」は具体的な職掌のない名誉職なので、自分は何もする必要あるまいと勝手に理屈をこねて、自邸でも政務を一切みなくなったのである。
 そのため、困り果てた天皇は、6月初め、心ならずも先の詔勅を撤回し「太政大臣(基経)今より以後、衆務を輔け行ひ、百官を統べ賜へ」との改詔を出された。しかし、それでも基経は出仕せず、先の勅を作った橘広相の処分を求めている。
 けれども、10月に入ると、当時讃岐(香川県)の国守(知事)だった菅原道真が、上京して基経に書状(『政事要略』所収)を届けた。それは、橘広相を朝廷に功績多大な文人として大胆に弁護するのみならず、基経に態度を改めるよう鋭く迫った勇敢な忠告書である。しかも、それが頑固な基経の心を動かしたのか、15日、広相無罪の恩詔が出され、27日には基経から和解の報答があり、いわゆる「阿衡」の紛議はようやく落着したのである。
 ここで注目すべきは、紛議解決間近の仁和4年(888)10月19日、宇多天皇(22歳)みずから御日記(『年中行事秘抄』等所引逸文)に次のごとく記されている。
我が国は神国なり。因りて毎朝、四方・大中小の天神地祗を敬拝す。敬拝の事、今より始め、後に一日も怠ること無けん云々。
 わが国を「神国」だという認識は、古くからある。貞観11年(869)12月、清和天皇が伊勢大神宮と石清水八幡宮への奉幣告文にも、「日本朝は所謂神明の国なり」「我朝の神国と畏れ憚り来れる故実」などとみえる。それらを承けて、宇多天皇がこの日から毎朝「四方・大中小の天神地祗を敬拝」することを生涯の日課とされた要因は、一年有余の辛い試練を神明の御加護で乗り越えられた、という感謝の思いがあられたからにちがいない(拙著『平安朝宮廷儀式書成立史の研究』国書刊行会)。

  菅原道真を重用して内政外交の改革

 この宇多天皇と和解した基経は「関白」として政務に復帰したが、2年3か月後の寛平3年(891)正月、56歳で薨去した(もし彼があと10年長生きしていたら、宇多天皇の親政はなかったであろう)。
 そこで天皇(25歳)は、前年帰京していた菅原道真(47歳)を直ちに蔵人頭(天皇の秘書官長)として抜擢し、わずか数年で左京大夫(京都市長)・勘解由長官(地方行政監察長官)や春宮亮(皇太子担当職次長)・中宮大夫(皇后担当職長官)および公卿(議政官=閣僚)の参議・中納言・右大臣などの要職を次々歴任せしめておられる。それに対して道真は、誠心誠意お応えしたが、決して従順だったわけではない。
 例えば、寛平6年(894)、天皇(28歳)は承和以来60年近く途絶えていた遣唐使を再開するため、語学にも堪能な道真(50歳)を大使に任命されたが、すでに内乱で衰退した唐へ巨費を投じて行くことの無益な理由を言上して中止されるに至った。また同8年には、国司の不正調査に検税使の派遣が決まると、讃岐国守の経験をもつ道真は、むしろ国司を信頼し、徴税も請負とするよう現実的な建議をしている。
 実は、これを契機に、一方において、従来かなり唐風文化に心酔気味の宮廷社会で、それを咀嚼して日本化した国風文化が徐々に花咲く。また他方において、従来かなり中央集権の形式に拘ってきた律令政治が、むしろ地方の実体を重んずる王朝国家へ次第に変化する。そのような時代の流れを作った主要な一人が道真であり、この道真のような人材を重用することによって後世寛平の治と称えられる親政を主導されたのが宇多天皇にほかならない。
 なお、天皇の道真に対する御信任ぶりは、譲位の際、醍醐新帝に書き与えられた『寛平御遺誡』に、こんなエピソードがみえる。
 寛平五年(893)、天皇(27歳)は道真(49歳)一人と相談して皇太子に敦仁親王を決められたが、その2年後、自由の身になりたいと、譲位の意向をもらされたところ、道真は「かくのごとき大事、自ら天の時あり、忽にすべからず」と反対し、「或は封事を上り或は直言を吐き、朕の言に順はず。又々正論」を主張したという。これこそ菅公が「朕(宇多天皇)の忠臣」である以上に「新帝の功臣」と推奨された所以である。詳しくは拙著『菅原道真の実像』(臨川書店刊)を参照していただきたい。

補注 宇多天皇の御事績(政治・仏教)についての近年の研究
 宇多天皇については、その前半生の政治的業績を中心に、笹山晴生「政治史上の宇多天皇」同『平安初期の王権と文化』(吉川弘文館)のほか、多くの論考・著書があり、関連史料が『大日本史料』第1篇(全24冊、補遺4冊)の冒頭部分にまとめられている(東大史料編纂所の「大日本史料データベース」において閲覧可能)。
 その中でもご自身の日記である『宇多天皇御記』の存在が注目される。宇多・醍醐・村上天皇による、いわゆる「三代御記」については所功編『三代御記逸文集成』(国書刊行会)があり(その解読が関東・関西の「三代御記逸文研究会」において進められている)、最近その書き下し文が国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」で公開された。研究としては古藤真平『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む―天皇自身が記した皇位継承と政争』(臨川書店)がある。
 また、宇多天皇の譲位・出家後の業績として、仁和寺を中心とした真言宗との関わりが重視されている。それについては川尻秋生「弘法大師の成立―真言宗の分裂と統合」新川登亀男編『仏教文明と世俗秩序』(勉誠出版)、駒井匠「宇多法皇考」根本誠二他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院)がある。
 なお、著者(所 功)の宇多天皇関係の論考は『菅原道真の実像』(臨川書店)のほか、DVD-ROM版『未刊論考デジタル集成 Ⅰ』(方丈堂出版)にも掲載・収録されている。あわせて参照されたい。

笹山晴生「政治史上の宇多天皇」http://hdl.handle.net/10959/997
東大史料編纂所ホームページ データベース
https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース 
https://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/index.php
              (久禮旦雄)