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永く仰がれる醍醐・村上両帝による延喜・天暦の治

令和4年5月1日

                                        所 功

  千百年前の『古今和歌集』勅撰

 第60代の醍醐天皇が延喜5年(905)4月、『古今和歌集』の勅撰を紀貫之たちに下命されてより、満1100有余年になる(完成は数年後)。しかも、それから300年後の元久2年(1205)3月、第82代の後鳥羽上皇より院宣を受けた藤原定家らが『新古今和歌集』を撰進している。
 和歌(やまとうた)は、「人の心を種として万の言の葉(歌)とぞ成れりける」(貫之の仮名序)と称されるとおり、日本人の心を如実に表すことのできる国風文化の代表といえよう。この『古今集』巻七「賀歌」冒頭に、「読人しらず」の「わが君は千代に八千代にさざれ石の巖となりて苔の産すまで」という長寿を言祝ぐ古歌が収められている。そのおかげで、それが間もなく「君が代は……」の形で広まり、やがて明治初年「国歌」に択ばれ、雅楽調の曲譜をつけて今に歌い継がれている。これこそ、君=天皇を国家・国民統合の象徴と仰ぐ日本にとって最もふさわしいnational anthemと高く評
価されている(拙著『国旗・国歌の常識』東京堂出版、『国旗・国歌と日本の教育』モラロジー研究所、参照)。
 ちなみに、「さざれ石」は「細石(小石)」であるが、私の郷里近く(岐阜県揖斐川町の旧春日村)の粕川上流には、伊吹山から流れ出る石灰質によって夥しい小石の凝結した大きな角礫岩(岐阜県の天然記念物)がある。

  醍醐天皇による「延喜の治」

 「延喜のミカド」とも称される醍醐天皇は、寛平9年(897)7月、まだ31歳の父君宇多
天皇の譲りを承けて、わずか13歳で即位された。そのため、当初は先帝より「内覧」(摂政相当の後見役)を命じられた藤原時平(26歳)と菅原道真(53歳)に万機(天下のマツリゴト)を委ねられるほかなかったであろう。
 しかるに、3年半後の昌泰4年=延喜元年(901)正月、左大臣の時平が大納言の源光らと組み、右大臣道真を謀反の冤罪で大宰府へ突如追放するに至った。時に数え17歳の天皇は、臣下の確執を十分ご存じなかったにせよ、上に立つ責任を痛感されたに違いない。
 そこで、同年7月、文章博士三善清行の建言に従って年号を「延喜」と改元するとともに、式部権少輔藤原清貫を宇佐八幡宮への奉幣勅使として派遣した際に大宰府へ立ち寄らせ、道真の気色(実情)を確かめさせておられる。それによって、道真になんら異心のないことが判ったけれども、さりとて直ちに帰京を聴許されるというわけにもいかない。しかし、勅撰『古今集』巻九に「朱雀院(宇多法皇)の奈良におはしましたりける時」(昌泰元年)、道真の詠んだ「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦 神のまにまに」の採録を認められたのは、名誉回復の叡慮とみてよいであろう。
 醍醐天皇の治世は、左大臣時平が補佐した延喜9年(909)までの前期と、それ以降の20余年間、藤原忠平の協力を得た後期とに分かれる。その間に太政大臣も関白も置かず、後期の15年間は左大臣も空席にして、主体的に親政を進めて治績を上げられた。
 例えば、まず前期には、一方で『古今集』と共に『延喜格』『延喜式』や「延喜儀式」の編纂を始めさせ、他方で班田収授の励行や不法荘園の整理など、律令的な社会経済の再建策や宮廷儀式行事などの整備を行わせておられる。また後期にも、五位以上の官人たちに率直な「意見封事」の提出を求め、それらを参考にして未納田租の徴収などを現地の国司に一任するような現実的政策を認めておられる。
 その御人柄を偲ぶ逸話が、『大鏡』をはじめ『今昔物語』『古事談』などに数多くみえる。例えば、雪の降る冷えた夜には、「諸国の民百姓いかに寒からんとて、御衣を脱ぎて(清涼殿の)夜御殿より投げ出しおはしまし」たという。また「延喜の帝、つねに笑みてぞおはしましける。そのゆへは、まめだちたる(きまじめな)人には物いひにくし、打とけたるけしき(雰囲気)につきてなん、人は物いひよき。されば、大小の事聞かんがためなり、とぞ仰せ」られたという。これは父君の『寛平御遺誡』にみえる教訓を忠実に守り実践されていた例証ともいえよう。
 そこで『神皇正統記』には、「この君……徳政を好み行はせ給ふ事、上代に越えたり。天下泰平、民間安穏にて、本朝仁徳(天皇)古き跡にもなぞらへ、異域尭舜のかしこき道にもたぐへ申しき」と絶讃されている。
 しかし、社会の実情が幾多の難問に直面していたことは、延喜14年(914)三善清行が「意見十二箇条」に指摘するとおりであろう(拙著『三善清行』吉川弘文館人物叢書参照)。しかも、当の醍醐天皇は、延長8年(930)6月、祈雨の会議中に清涼殿を直撃した落雷にショックを受け、3か月後に46歳で崩御されている。

  醍醐天皇を御手本とされた村上天皇

 その直前に譲りを受けて即位された朱雀天皇(実母は忠平の妹穏子)は、まだ8歳の幼主であったから、左大臣忠平(51歳)が摂政に任じられた。まもなく東国で平将門、しかも西国で藤原純友による承平・天慶の乱(935~941)が起こり、その結着後も関白となった忠平が万機を左右している。
 ついで、天慶9年(946)、朱雀天皇(24歳)の譲りを承けて同母弟の村上天皇が即位された。それから3年後に関白忠平が薨ずると、村上天皇(24歳)は摂政・関白を置かず、忠平の子の左大臣実頼と右大臣師輔らの協力を得て、20年近く親政に努められた。
 この御代の事績としては、例えば、清原元輔(清少納言の父)らが勅令をうけて、天暦5年『後撰和歌集』を撰進し、また大江朝綱が同8年「撰国史所別当」に任命され、『日本三代実録』〈延喜元年(901)撰進〉に続く正史の編纂に着手している。
 ついで同11年=天徳元年(957)には、詔命を承けて菅原文時(道真の孫)が「封事三箇条」を上奏し、その翌年には50年前の貨幣「延喜通宝」に倣い、「乾元大宝」が鋳造されている。また天徳5年(961)を「革命」年の辛酉にあたるとして、60年前の「延喜」改元に倣い「応和」と改元され、そのうえ同4年を「革令」年の甲子にあたるとして「康保」と改元された。これによって、それ以後幕末まで九百年近く、辛酉・甲子の年ごとに改元する先例となったのである。
 さらに康保2年(965)、60年ぶりに『日本書紀』の講書と竟宴が行われ、また同4年には、いったん延長5年(927)奏進されていた『延喜式』全50巻に修訂を終え、施行されるに至っている。しかも、そのころ最晩年の天皇(42歳)ご自身、宮廷儀式書『清涼記』を撰述しておられる(拙著『平安朝儀式書成立史の研究』国書刊行会参照)。
 このように、村上天皇の治績は、父君醍醐天皇を御手本とされたものが多い。そこで、『大鏡』も「世の中のかしこきみかどの御ためしに……この国には延喜(醍醐)・天暦(村上)とこそは申めれ」と称讃している。
 なお、宇多天皇には「寛平御記」、醍醐天皇には「延喜御記」、村上天皇には「天暦御記」の名で知られる御日記があり、その逸文が伝わっている(拙著『三代御記逸文集成』国書刊行会)。いずれも自ら体験し見聞された貴重な記録である。例えば応和4年=康保元年(964)4月29日、皇后藤原安子(38歳)が選子内親王を出産して直後に崩御されたときの実情など、感涙を禁ずることができない。

補注
醍醐・村上天皇の御事績と史料
 醍醐・村上天皇の日記は宇多天皇の日記とともに朝廷で重視され続けたが現存していない。しかし所功編『三代御記逸文集成』(国書刊行会)により、その内容を知ることができる。醍醐天皇日記については堀井佳代子『平安宮廷の日記の利用法 醍醐天皇御記をめぐって』(臨川書店)がある。また村上天皇の日記については、三代御記逸文研究会(代表所功、幹事竹居明男)による解読が現在も京都で続けられている。
 延喜5年(905)に醍醐天皇の命により編纂が開始され、その後も長く検討が行われて、村上天皇が崩御された康保4年(967)に頒布された『延喜式』については、延喜式研究会による膨大な注釈が付された虎尾俊哉編『訳注日本史料 延喜式』(上中下)(集英社)がある。また近年では、国立歴史民俗博物館の平成28年度共同研究「古代の百科全書『延喜式』の多分野協働研究」の成果として、『国立歴史民俗博物館研究報告』第218集(令和元年)の特集「[共同研究] 古代の百科全書『延喜式』の多分野協働研究 中間報告」・『同』第228号(令和3年)に収録された諸論文・資料紹介(リポジトリで公開)及び『総合誌歴博』219(令和2年)特集「ひろがる『延喜式』」掲載の論考が参考になる。(久禮旦雄)
(参考文献)
『国立歴史民俗博物館研究報告第218集』(令和元年)特集「[共同研究] 古代の百科全書『延喜式』の多分野協働研究 中間報告」
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