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好文の一条天皇と後宮および「内覧」藤原道長

令和4年6月1日

                                            所 功
  「時代祭」を彩る清少納言と紫式部

 毎年、爽秋の10月22日、京都では三大祭の一つに数えられる「時代祭」が催される。この日付は 延暦13年(794)桓武天皇が長岡京より平安京へ遷都された記念日である。その平安京都は、先年余り「ミヤコ」(ミヤ皇居のあるコ処)であったが、東京奠都により急に衰退しはじめた。それを回復するため、明治28年(1895)、内国勧業博覧会の機会に平安神宮(官幣大社)を創建して、その大祭を盛り上げるアトラクション「時代風俗行列」を始め、それが翌年から御祭神の桓武天皇が神輿に乗って京都御所より平安神宮まで巡幸される際の先触れパレードとして位置づけられたのである。
 しかも、当初は平安初頭から幕末までの主要な衣装をつけた六列でスタートしたが、市民の要望もあって段々と行列が増加された。とりわけ戦後の昭和25年(1950)から、新たに各時代の「女人列」が加わり、全般に華やかさを増している。中でも「平安時代女人列」のヒロイン、清少納言(正装の十二単姿)と紫式部(略装の小袿姿)は、すこぶる人気が高い。
 この著名な才女たちが宮廷女官として活躍したのが、第66代の一条天皇朝にほかならない。その後宮には、本来同義の皇后と中宮とが並立しており、一方の皇后藤原定子に仕えたのが清少納言、他方の中宮藤原彰子に仕えたのが紫式部である。したがって、この個性豊かな二人は、立場上もライバルにならざるを得なかったが、時代祭の行列では仲良く台車に乗って錦秋の都大路を進んでゆく。

  村上天皇以後の「両統迭立」的な皇位継承

 前回取り上げた村上天皇と皇后藤原安子(師輔の娘)との間には、3親王・4皇女が生まれた。その崩御(967)により長男憲平親王(18歳)が即位して冷泉天皇となられ、その皇太子には次男の為平親王(16歳)ではなく三男の守平親王(9歳)が立てられた。それは関白となった藤原実頼(師輔の兄)が、右大臣源高明(村上天皇異母兄)の娘を妃としていた為平親王を忌避したからであろう。しかも、2年後の安和2年(969)、高明自身が菅原道真と同様に大宰府へ追放されている(ただ3年後に帰京)。
 その安和2年、病弱な冷泉天皇の譲りを受けた守平親王が即位して円融天皇となられ、前帝と摂政藤原伊尹(師輔の子)の娘懐子との間に生まれていた師貞親王が皇太子に立てられた。しかし、まもなく関白となった兼家(伊尹の弟)が次第に実権を握り、娘の詮子を円融天皇の女御に入れて懐仁親王の誕生をみた。そこで、永観2年(984)、円融天皇の譲りを受けた師貞親王=花山天皇は、直ちに懐仁親王(5歳)を皇太子に立てた。
 ところが、兼家は、その2年後に策略を用いて花山天皇を出家させてしまい、外孫の懐仁親王(7歳)が即位して一条天皇になられる。その際、みずから摂政に就任し、同じく外孫の娘超子と冷泉上皇との間に生まれた居貞親王(のちの三条天皇)を皇太子に立てている。
 このように、村上天皇以降の皇統は、A冷泉天皇・B円融天皇、A花山天皇・B一条天皇、A三条天皇・B後一条天皇という次第で、AとBの両統が交互に即位する、いわば両統迭立の状況になった。これは、鎌倉時代の大覚寺統と持明院統の両統迭立ほど深刻な対立抗争には至らなかったけれども、外戚の摂関藤原氏により皇位が左右されたのである。

  外伯父「内覧」藤原道長の全盛期

 この一条天皇は、寛和2年(986)7月の践祚から寛弘8年(1011)6月の崩御まで、25年間在位された。当初10年間は、天皇が幼少のため、藤原兼家と道隆・道兼兄弟が摂政・関白を務めている。
 そのうち道隆は、長女の定子を天皇の中宮(皇后)に立てるのみならず、息子の伊周や隆家の官位を強引に上げるほどの勢いを示した。
 ところが、長徳元年(995)、その前年から全国的に大流行した疫癘(天然痘)により、前関白道隆(43歳)も現関白道兼(35歳)も、大納言の源重信と藤原朝光・済時・道頼や中納言の源保光・源伊陟(他に『蜻蛉日記』を書いた兼家の妻など、宮中の貴族だけでも百数十人)らと共に、次々と病死してしまった。
 そこで、一条天皇(16歳)は、皇后定子の兄伊周(22歳)を関白に指名しようとされたが、生母の皇太后詮子から兄道長(30歳)を強く推薦された。そのため、まもなく右大臣から左大臣となる道長を、天皇補佐役の関白としないで、むしろ天皇後見役の摂政に近い「内覧」とされたのである。
 それから30年余り、道長主導の全盛期が続く。例えば、長保2年(1000)、天皇(21歳)のもとに最愛の皇后定子(25歳)がいたにもかかわらず、道長(35歳)は長女の彰子(13歳)を女御から中宮に立て、一帝二后の並立という前代未聞の例を開いている。ついで寛弘8年(1011)、一条天皇(32歳)の崩御により三条天皇(36歳)が即位されると、道長(46歳)は娘の妍子を中宮に立てるとともに、彰子の生んだ敦成親王を皇太子に定めた。さらに5年後(1016)、三条天皇の譲りを受けた敦成親王(9歳)が即位して後一条天皇になられる。すると、道長(51歳)は10歳ほど年上の娘威子(18歳)を入れて中宮に立て、しかも天皇の同母弟(つまり彰子の子)の敦良親王(のちの後朱雀天皇)を皇太子に定めている。
 こうして道長は、自分の娘を三人も皇后(中宮)にする「一家三后」を成し遂げた。まさに「この世をば我が世とぞ思ふ……」(『小右記』)に至ったのである。

 「延喜・天暦」に倣った「好文の賢皇」

 しかし、さりとて道長が何もかも独断専行したわけではない。特に成人後の一条天皇とは、あくまで「内覧」のまま仕え、親密な関係を保っている。そのため、同治世の後半の十数年間には、蔵人頭(天皇秘書官長)や弁官(太政官総務局)などを歴任した有能な人材、たとえば藤原氏の実資・斉信・公任・行成や源氏の頼義・俊賢(高明の三男)などが、数多く登用され縦横に活躍している。
 しかも、それは天皇ご自身の見識に基づくものであった。それゆえ、当時すでに権大納言源行成から「寛仁の君……好文の賢皇」と称えられ(『権記』)、また文章博士大江匡衝により「長保・寛弘(一条天皇朝後半の年号)の政、延喜・天暦(醍醐・村上両天皇朝の聖代)に擬す」と評されている。
 その精励ぶりは、たとえば長保元年(999)、内裏が火災で焼失した際、天皇(20歳)は大内裏の東北に隣接する里内裏に遷って、そこで公卿たちと御前会議を開き、内裏再建の造営割当てを協議するのみならず、右大臣道長に「陣定」(閣議)を開かせ、「新制十一か条」を太政官符により下さしめておられる。
 その新制(法令)の内容は、「神事違例を慎むべき事」「神社の破損を禁制すべき事」「定額諸寺堂舎の破損に修理を加ふべき事」「僧侶故無く京に住み及び車宿と号する京舎宅を禁制すべき事」など、神事・神社や仏寺・僧侶に関するものから、「男女道俗の美服を着するを禁制すべき事」「諸司・諸衛の官人の饗宴・碁手(賭事)の輩を禁制すべき事」など、一般男女の華美禁止や諸官人等の綱紀粛正に関するものまで及んでいる。しかも、一条天皇は、この新制を徹底するよう、翌年あらためて検非違使別当の藤原公任や蔵人頭の藤原行成に直接指示されるほど熱心だったのである。

【補注】
一条天皇朝に関する古記録と発掘資料
 一条天皇朝については、その前後に政権中枢にいた貴族たちの古記録の注釈や現代語訳が近年多く刊行されている。現代語訳については倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」 全現代語訳』全3巻(講談社学術文庫)、『藤原行成「権記」 全現代語訳』全3巻(講談社学術文庫)、『現代語訳 小右記』全16巻刊行予定(吉川弘文館)があり、わかりやすい入門書として『藤原道長の権力と欲望 「御堂関白記」を読む』(文春新書)、『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ)、『権記 日本の古典』(角川ソフィア文庫)が刊行されている。
 また注釈書としては山中裕編『御堂関白記全註釈』全16巻(思文閣出版)があるほか、 『小右記』について黒板伸夫監修・三橋正編『小右記註釈 長元四年』(小右記講読会発行・八木書店発売)があり、また古代学協会刊行の雑誌『古代文化』と広島大学大学院教育学研究科下向井龍彦研究室の紀要『史人』において注釈の連載が行われている。また、国際日本文化研究センターの摂関期古記録データベースでは、順次これらの古記録の書き下しのデータベース化が進められている。
 これらの研究をもとに、近年、摂関期の政治の在り方について、大津透『日本の歴史06道長と宮廷社会』(講談社学術文庫)や古瀬奈津子『シリーズ日本古代史6 摂関政治』(岩波新書)、古瀬奈津子・東海林亜矢子『日記で読む日本史 日記から読む摂関政治』(臨川書店)などわかりやすい概説書が出ていることもありがたい。現代語訳を行った倉本一宏氏による『人物叢書 一条天皇』(吉川弘文館)及び『人物評伝選 三条天皇』(ミネルヴァ書房)も古記録の内容の理解を助けるものである。
 平成20年(2008)には源氏物語千年紀にあわせて、多くの関連イベントや出版が行われたが、中でも京都市埋蔵文化財研究所監修『紫式部の生きた京都―つちの中から』(ユニプラン)や日向一雅『源氏物語と平安京 考古・建築・儀礼』(青簡舎)などは、紫式部が生きた一条天皇朝前後の平安京の社会について発掘調査から明らかにしたものである。
今後、紫式部を扱う再来年の大河ドラマ『光る君へ』にあわせて、新たな研究や知見が刊行・発表されることを期待したい。(久禮旦雄)