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親政と初の院政に励まれた白河天皇

令和4年7月1日

                                 所 功
  平安時代の政治史的な3区分

 平安時代は、日本史上いわゆる大和時代(推定1C~6C)についで長い約400年続いた。それを仮に3区分するならば、まず前期は桓武天皇の即位(781年)ないし平安遷都(794年)から村上天皇の崩御(930年)まで、つぎの中期は朱雀幼帝の即位(同上)から後冷泉天皇の崩御(1068年)まで、さらに後期は後三条天皇の即位(同上)から後白河天皇の崩御(1192年)ないし承久の変(1221年)までとなろう
 その政治史的なメルクマール(目印)を端的にいえば、平安前期は天皇親政、平安中期は摂関政治、平安後期は上皇院政といえよう。すなわち、まず前期には、天皇が親ら宮廷政治を主導されたケースが多い。ついで中期には、摂政・関白を世襲した藤原氏が中心になって政治を動かすケースが多い。さらに後期では、譲位された上皇(院)が政治に大きな影響力を与えたケースが多い。
 ただ、これは政治の主力に重点を置いた大まかな区分であり、細かく見ると例外も少なくない。しかも、それ以上に重要な史実は、天皇から任命される公卿(内閣議政官)を中心に進められる太政官政治が、前期だけでなく中期でも後期にも機能していたことにほかならない。つまり、摂政・関白は太政官の首座として格別の権力を行使したのであり、上皇は幼少天皇の後見として太政官の人事などに介入したのである。その摂関は天皇の外戚であり、また上皇は天皇の父君だからこそ、力を持ち得たことに留意する必要があろう。

  後三条天皇の画期的な親政

 藤原道長の跡を継いだ頼通は、姉の彰子が生んだ後一条・後朱雀両帝と、妹の嬉子が生んだ後冷泉天皇の3代にわたり、50年近くも関白を務めている。しかし、その間に養女の源子を後朱雀天皇の中宮とし、また娘の寛子を次の後冷泉天皇の皇后としたが、2人とも皇子に恵まれなかったので、長らく続いてきた当代天皇との外戚関係を失うに至った。         すなわち、後朱雀天皇と禎子内親王(三条天皇皇女)との間に生まれた尊仁親王が異母兄の後冷泉天皇の皇太子に立てられ、関白頼通から妨害を受けながらも、治暦4年(1068)に後三条天皇として即位の夢を果たされたのである。逆に落胆した頼通(77歳)は、関白職を弟の教通に譲り、宇治へ隠棲してしまった、これによって摂関全盛の平安中期が終焉したことになる。
 そこで、後三条天皇(35歳)は、外戚関係のない関白などに制約されることなく、積極的に新しい政策を打ち出された。その代表的な一例が荘園整理にほかならない。平安中期(10世紀以降)には、各地の領主が開発した荘園を中央の権門勢家に名目上寄進して利権を確保したので、おのずから最高権門の摂関家が最も多くの荘園を所有するに至り、それを自ら抑制するような政策はとり得なかった。しかし、後三条天皇は強い指導力を発揮して、延久元年(1069)、中央政府に主要な公卿と有数な官人からなる「記録荘園券契所」を設け、摂関家や有力社寺の大荘園も法令に照らして厳しく整理せしめられたのである。
 しかしながら、即位わずか4年半で譲位された。それは上皇として院政を開く意図があられたからとみる説もあるが、真因は病気らしく、翌年40歳で崩御してしまわれた。

  文雅も主導された白河天皇

 延久4年(1072)12月、この父帝から皇位を譲られたのが、皇太子貞仁親王=第72代白河天皇(20歳)である。その生母茂子は、摂関家傍流の閑院公成の娘であり、まもなく頼通も教通も没したので、師実(34歳)を関白に据えられたが、宮廷政治は天皇自身が父帝と共にリーダーシップを発揮しておられる。
 その親政ぶりは、文雅の催し事にもみられる。例えば、承保3年(1076)10月、白河天皇は群臣たちと嵯峨野に遊猟して歌会を催され、
  大井川ふるき流れを尋ねきて 嵐のやまの紅葉をぞ見る
と詠まれたが、この行幸に随従した右大臣源師房は「高く延長の旧則を追ひ、重ねて承保の新儀を開く」と称えている(『本朝続文粋』)。これは、醍醐天皇による延長4年(926)の大井川(桂川)行幸の盛儀を追懐しながら、天皇親政による聖代の再現を当代の理想として示されたことになろう。
 また承暦2年(1078)4月には、清涼殿で盛大な「殿上の歌合」を催されたが、歌人たちは「時に会ひ、よき歌も多く侍り……事様のかど、えもいはぬ事にて、天徳の歌合、承暦の歌合をこそは、むねとある歌合と世の末まで思ひて侍るなり」(『今鏡』)と称えたという。これも当代の文雅が天徳=村上天皇朝のそれと並ぶ聖代の治績とみなされていたことになろう。
 ちなみに、白川天皇は在位中に『後拾遺和歌集』、晩年に『金葉和歌集』を勅撰され、前者に7首、後者に5首の御製がおさめられている。

  上皇として三代にわたり院政

 白河天皇は在位15年目の応徳3年(1068)譲位された。しかし、まだ35歳の壮齢であり、皇子の堀河天皇が8歳にすぎなかったから、上皇として幼帝の後見役を自任し、それ以上に積極的な執政を続けておられる。そのため、上皇近臣の大江匡房も、今の世の事は上皇の御意向を伺ってからでないと何事も行い得ない(『江記』要旨)と批評している。
 ただ、寛治8年(1094)に成人された堀河天皇(16歳)は、新関白師通(33歳)の協力を得て親政に努められた。そのためか、翌々年上皇は出家して造寺・造仏に力を入れられるようになった。しかし、嘉承2年(1107)、天皇(29歳)の崩御により、皇子の鳥羽天皇(5歳)が即位されると、白河法皇(56歳)は再び本格的な院政を行っておられる。
 その院政とは、上皇が従来どおり太政官政治に従事する主要な近臣たちの任官・叙位に関する実権を握り、上皇の意向を「院宣」などによって朝政に反映せしめられたのである。
 そこで、白河院政を支えた近臣をみると、摂関家に代って外戚となった人々(堀河天皇の外祖父源顕房、鳥羽天皇の外祖父閑院実秀、崇徳天皇の外祖父閑院公実など)や上皇の乳母の縁者(藤原知綱・藤原顕季など)および上皇に寵遇された受領(高階為家・為章父子など)だけでなく、有能なブレーンとして源俊明・大江匡房や藤原為房・顕隆父子などが数多くいた。しかも、興福寺や延暦寺などの僧兵が強訴に及ぶと、源義家や平正盛などを登用して対抗させ、それを機に彼ら武門が政界に進出する道を開いたことになる。
 やがて保安4年(1123)、曾孫の崇徳天皇(5歳)が即位されると、白河法皇(71歳)は仏事に専念して殺生の禁令を頻発され、大治4年(1129)7月7日、77歳の生涯を終えられた。その際、中御門宗忠は、日記で院の治政を振り返り、「意に任せて法に拘らずに除目・叙位を行ひたまふ。威四海に満ちて天下帰服す。幼主三代の政を秉る……聖明の君、長久の主と謂ふべし」と称えながら、「但し理非決断、賞罰分明なれど、愛悪掲焉、貧富顕然たり。男女の殊寵多きに依りて、すでに天下の品秩破るゝなり」と批判も加えている。

【補注】白河法皇の院政と鳥羽殿の造営
 白河法皇にはじまる「院政」の時代は、古代の終焉の時代とも言えるし、中世のはじまりの時代と考えることもできる。中世史家の美川圭氏は『白河法皇―中世をひらいた帝王』(NHK出版→角川ソフィア文庫)において、白河天皇(法皇)を、政治勢力が激しく競合する中世社会において、天皇の権威を守り、皇室と朝廷を存続させることを使命として、専制的な院政という体制を構築した君主としている。美川氏はこの他にも、白河法皇の院政期に、鴨川の東側の白河・鳥羽の開発が進展し、「権門都市」と称される空間が生み出されたことにより、中世都市としての京都が生まれたことも重視している。
 白河・鳥羽の開発の中心となったのは白河法皇が応徳3年(1086)より造営された鳥羽離宮である。鳥羽離宮については、京都市伏見区竹田・中島地区において、名神高速道路の建設と、同京都南インターチェンジ周辺の開発により、昭和35年(1960)より発掘調査が行われており、順次報告書が刊行されている(現在遺跡指定を受けているのは、西は鴨川、東は近鉄京都線、北は名神高速道路、南は府道伏見向日線に囲まれた東西約 1.2km、南北約 1.0km、現在の鳥羽離宮公園は西端にあたる)。
 また、白河法皇の御願寺である法勝寺に、永保元年(1081)に造営がはじまり同3年に落慶供養が行われた、高さ27丈(約81m)と伝えられる八角九重塔跡が、平成22年(2010)に京都市左京区岡崎の京都市動物園内から発見されている。
鳥羽離宮など、この時期の都市の概説書として、長く鳥羽離宮発掘に関わった鈴木久男氏の『シリーズ「遺跡を学ぶ」平安末期の広大な浄土世界―鳥羽離宮跡』(新泉社)のほか、高橋昌明編『平安京・京都研究叢書1 院政期の内裏・大内裏と院御所』(文理閣)が参考になる。また京都市中京区の京都アスニー1階にある平安京創生館では、鳥羽離宮の復元模型(千分の一模型)と、法勝寺復元模型(百分の一模型)が常設展示されている。(久禮旦雄)        
〈参考文献〉
財団法人京都市埋蔵文化財研究所「法勝寺八角九重塔跡発掘調査現地説明会資料」
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/gensetsu/182zoo.pdf
京都市埋蔵文化財研究所調査報告第20集『鳥羽離宮跡Ⅰ 金剛心院跡の調査』
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/houkokusyo/20_toba_honbun.pdf
京都市考古資料館「鳥羽離宮」
https://www.kyoto-arc.or.jp/museum/map/14toba.pdf
古典の日記念京都市平安京創生館 常設展示
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/jyousetsu.html#toba
『平安京探偵団』「鳥羽離宮散策」
https://homepage-nifty.com/heiankyo/heike/heike42.html