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難局を切り抜けられた「治天の君」後白河上皇

令和4年8月1日

                                     所 功
  大河ドラマ「鎌倉殿」にも登場の「大天狗」イメージ

 NHKテレビの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も、いよいよ終盤に入った。その前半に再三登場したのが、西田敏行さん演ずる後白河上皇(法皇)である、しかし、この法皇は、時の平氏や源氏を利用しながら使い捨てた如何様師のようなイメージを与える描き方になっていたのは、いかがであろうか。
 確かに上皇は、例えば文治元年(1185)10月、頼朝の冷たい仕打ちに耐えかねた義経から迫られると、義経を宥めて京都の守備にあたらせるため、頼朝追討の宣旨を下されながら、まもなく大蔵卿の高階泰経を密かに鎌倉へ遣わして、あの宣旨は義経の強要に従った措置にすぎない、と苦しい弁解を伝えられた。それに対して、頼朝が「日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と痛烈に批判したことが、幕府の史書『吾妻鏡』に記されている。
 しかし、これには二つの疑問が湧く。その一つは、この「大天狗」が後白河法皇を指すと解してよいかどうかである。頼朝は朝廷や神宮を尊崇する念が篤く、あしざまに法皇を非難するような直情径行の人物ではなかったと見られるから、これは院の近臣として暗躍した高階泰経を指す、とみる有力な反論がある。
 もう一つは、義経と頼朝への矛盾した態度が、単に利己的な保身のために行われたのかどうかである。後白河上皇としては、平家を討って人気絶頂の義経とも、それを抑えて全国制覇に乗り出そうとする頼朝とも、正面から対決するならば、京都も天下も戦乱に陥るような事態を招くだろうから、それを何とか回避しようとされた苦渋の選択であった、と考えるほうが真相に近いと思われる。

  仮の即位から本格的な院政への取り組み

 歴代天皇のうちの20数名は、皇位と縁の遠い立場にいながら、はからずも即位されている。第77代の後白河天皇も、そのお一人にほかならない。まずそのいきさつを見ておこう。
 後白河天皇(雅仁親王)は、前回紹介した白河上皇の孫(一説に実子)の鳥羽天皇と中宮藤原璋子との間に、大治2年(1127)誕生された。しかし、その4年前に同母兄の顕仁親王が崇徳天皇として君臨され、その14年後に異母弟の躰仁親王(生母藤原得子)が即位して近衛天皇となられたから、もはや中兄の雅仁親王に登極の可能性はないだろう、と思われていたにちがいない。
 しかるに、久寿2年(1155)近衛天皇が17歳の若さで急逝されてしまった。そこで、同母姉の章子内親王(八条院)を女帝に立てる案なども出されたが、結局、雅仁親王(29歳)の子の守仁王(13歳)を近いうちに立てることにして、健在の父君雅仁親王をとりあえず仮に即位せしめ、直ちに守仁王を皇太子とされたのである。
 そのため、即位当初はほとんど政治に関与することができず「御遊びなど」に耽っておられた(『愚管抄』)。しかしながら、翌年の保元元年(1156)、父君の鳥羽上皇の崩御直後、兄崇徳上皇と弟後白河天皇の対立に摂関家の抗争が絡み、武士を巻き込んだ保元の乱が起こった。しかも、それに先手を打った天皇方が勝利すると、天皇の乳母の夫で博識多才な少納言藤原通憲(入道信西)の建策を用い、親政に励まれている。
 例えば、久しぶりに大内裏を再建して諸朝儀の再興に努め、また荘園整理のため「新制」を下す際、「九州(大八洲と同義)の地は一人(天皇)の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と明言されている。
 ついで保元3年(1158)、後白河天皇(32歳)は守仁親王(16歳)=二条天皇に譲位して、院政を開始され、独自の政策を進められた。それにつれて、近臣の信西が反発を強め、平治元年(1159)、源義朝らと組んで挙兵した。けれども、それを平清盛(42歳)が一挙に制圧している(平治の乱)。
 その結果、上皇は清盛を重用されるようになり、やがて仁安2年(1167)従一位太政大臣にまで叙任された。しかも、二条・六条両天皇の後に、上皇と平滋子(清盛の妻の妹)の間に生まれた高倉天皇、ついで天皇と平徳子(清盛の娘)との間に生まれた安徳天皇を即位せしめられている。
 しかし、清盛と平家一門が栄華を極める間に反対の動きも強まった。そこで、治承4年(1180)、上皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じた諸国の源氏が決起し、義仲・義経らの活躍を経て、頼朝が勝利するに至った。その間、上皇は右往左往を余儀なくされながら、「治天の君」として武門に対抗し続け、建久3年(1192)66歳の生涯を閉じられたのである。

  今様と仏教にも極めて熱心な型破りの法皇

 この後白河天皇は、若いころから「今様」を愛好された。今様は当時の庶民的な流行歌謡であるが、それを「宮の男女」らと「夜も昼もうたふ」のみならず、晩年の治承3年(1179)には、それらを集大成した『梁塵秘抄・同口伝集』20巻を編纂しておられる。従来の天皇や貴族は漢詩文を学び、庶民と一線を画してきたが、そんなことにとらわれないユニークな帝王だったのである。
 ちなみに、のちに対立を深めた信西は、後白河上皇を「和漢に比類なき暗君」と厳しく批評しながら、反面でその「徳(長所)」として、「何かしようと思うことがあれば、人の制法に拘らず、必ず為しとげること」「聞いたことを決して忘れず、いつまでも心の底に覚えていること」の二つを挙げている(『玉葉』要旨)。
 また、上皇は早くから仏門にあこがれ、在位わずか3年で皇位を退かれたのも、崇仏のためとみる説がある。確かに出家して法皇となり、東大寺で受戒を遂げられたのは、40歳代に入ってからであるが、すでにその数年前から、京畿の社寺(賀茂社・石清水八幡宮や仁和寺・法勝寺・延暦寺・四天王寺など)に何度も参詣し、新日吉社・新熊野社や蓮華王院(三十三間堂)、長講堂(六条持仏堂)などの造営に力を尽くしておられる。
 とりわけ、京都から熊野街道を1か月近くかけて往復し熊野三山を巡拝する「熊野詣」は、白河・鳥羽両上皇と同じく、極めて熱心であった。例えば、仁安年間(1166~69)には毎年2回(秋と冬)参詣したことを含め、約20年間で30回ほど行われている(晩年には京内の新熊野社へ参詣)。
 しかし、後白河上皇は、このように神仏崇敬の念が強かったにもかかわらず、加持祈祷などをほとんど信じられなかった。そのため、例えば嘉応2年(1170)、宋の商船が兵庫に入港し清盛の福原別荘に招かれた際も、同地巡幸中の上皇は、旧慣を破って宋人を引見され、まもなく清盛に宋との貿易を認めておられたのである。

【補注 後白河法皇の文化的な事績の再評価】
 後白河天皇(上皇・法皇)については、平清盛・源頼朝といった新興の武士勢力とわたりあい、朝廷の権威を守り抜いた政治的君主として評価される(安田元久『後白河天皇』吉川弘文館)一方で、今様歌謡集『梁塵秘抄』の執筆や『年中行事絵巻』や『伴大納言絵巻』『病草紙』など絵巻物の収集・製作、蓮華王院(その一部が三十三間堂)の造営などの文化面でも活動されており、その事蹟の多様性は古代学協会編『後白河院 動乱期の天皇』(吉川弘文館)収録の諸論文によりうかがうことができる。
 近年では、この政治と文化の活動を一体のものとして評価し、武士勢力との対峙の中で、政治的には譲歩しつつも、文化的には優位に立ち、権威を維持するという中世・近世の朝廷の立場の出発点として後白河法皇をとらえようとする研究が行われている。この視点は、棚橋光男氏により提示され(棚橋光男『後白河法皇』講談社選書メチエ→講談社学術文庫)、その後、より具体的・実証的な研究が蓄積されている(五味文彦『後白河院 王の歌』山川出版社、遠藤基郎 『後白河上皇―中世を招いた奇妙な「暗主」』山川出版社〈日本史リブレット人〉、美川圭『後白河天皇』ミネルヴァ書房〈人物評伝選〉など)。
 また、その文化的活動について、より具体的に論じたものとして、絵巻物については伊藤大輔・加須屋誠『天皇の美術史〈2〉治天のまなざし、王朝美の再構築―鎌倉・南北朝時代』(吉川弘文館)、小林泰三『後白河上皇 「絵巻物」の力で武士に勝った帝』(PHP新書)があり、また個別の絵巻物については日本絵巻大成・日本絵巻物全集に図版・解説が収録されている。
 今様については廣野はるか「後白河院と今様」(東北大学卒業論文、東北大学リポジトリにてWeb公開)があるほか、『梁塵秘抄』について、手に取りやすい文庫版だけでも佐佐木信綱『新訂 梁塵秘抄』(岩波文庫→岩波文庫ワイド版)、植木朝子編訳『梁塵秘抄』(ちくま学芸文庫)、馬場光子『梁塵秘抄口伝抄 全訳注』(ちくま学芸文庫)、川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社古典新訳文庫)があり、解説書として加藤周一『梁塵秘抄・狂雲集』(同時代ライブラリー)、西郷信綱『梁塵秘抄』(ちくま学芸文庫→講談社学術文庫)、入門書としては植木朝子編『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 梁塵秘抄』(角川ソフィア文庫)がある。(久禮旦雄)
廣野はるか「後白河院と今様」(東北大学リポジトリ)
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