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承久の変に殉じられた後鳥羽・順徳の両上皇と土御門上皇

令和4年9月1日

                                                所  功

 「百人一首」の掉尾を飾る両御製

 戦後古典軽視の風潮が続いていたころ、全国かるた協会主催のカルタ大会はが昭和30年(1955)靖国神社において始まり、平成6年(2004)から国民文化祭の競技種目に加えられ、年々盛んに行われている。また天智天皇を祀る近江神宮でも昭和54年から開催されている高校生かるた選手権大会は、クイーン戦などもあって人気が高い。
 このカルタは、ポルトガル語のcartaに由来するが、よく「歌留多」と書かれるのは、五七調の歌ガルタ、とりわけ「百人一首」の札取り遊びが広く親しまれているからであろう。
 その「百人一首」は、鎌倉初期に藤原定家が、天智天皇・持統女帝以来の秀歌を撰び、継子の為家が補訂を加えたものとみられている。その掉尾を飾るのが、99首目の後鳥羽上皇と100首目の順徳上皇の詠まれた、次のような御製にほかならない。
 (99)人も惜し人も怨めしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は
 (100)百敷や古き軒端の忍ぶにも なほあまりある昔なりけり
 前者は建暦2年(1212)、後鳥羽上皇(33歳)が、思うに任せぬ現実を嘆かれた1首である。また後者は建保4年(1216)、順徳天皇(20歳)が、平安の聖代を偲び現実との違いを嘆かれた1首である。お二方とも、鎌倉に政治の実権が移ってから急速に衰微した朝廷の権威を、なんとか取り戻そうと志しておられたことが拝察される。
 しかし、それから数年後の承久3年(1221)、朝権回復を期して、北条義時追討の名目で挙兵だれたが、あえなく敗北してしまい、お二方とも配流先で亡くなっている。とはいえ、この承久の変に込められた理念が、やがて約100年後に建武中興を呼び起こし、さらに約650年後の明治維新を導き出したとみれば、その歴史的な意義は極めて大きい。

 『新古今和歌集』の勅撰と切継

 第82代後鳥羽天皇は、治承4年(1180)高倉上皇と藤原(坊門)殖子の間に誕生された尊成親王である。その直前、父帝から異母兄の言仁親王=安徳天皇(3歳)に譲位されたが、この幼帝は3年後(寿永2年)、平家に奉じられて都落ちされた。そこで祖父の後白河法皇(58歳)は、都に残っていた尊成親王(4歳)を擁立して後鳥羽天皇とされ、院政を続けられた。
 しかし、建久3年(1192)、法皇が崩御されると、後鳥羽天皇(12歳)は、源頼朝(46歳)の要望に従って彼を征夷大将軍に任じられ、その頼朝が鎌倉に幕府を開くに至った。しかも、その6年後(建久9年)、まだ19歳の天皇が長男の為仁親王=土御門天皇(4歳)に譲位されている。これにより、前年に上皇と高倉重子(範季の娘)との間に誕生した守成親王(のち順徳天皇)への流れを作るため、先手を打たれたものとみられる。
 しかも、譲位して自由な立場になった後鳥羽上皇は、「治天の君」として文化的・政治的な活動を積極的に展開されている。
 その一つが『新古今和歌集』の勅撰である。上皇は源通親の私邸で催された「(柿本)人麻呂影供歌合」に招かれて和歌に開眼され、京内外への行幸、とりわけ26年間で31回にも及んだ熊野詣の折などにも和歌会を開いて、天賦の歌才を発揮された。そして、早くも建仁元年(1201)、上皇(22歳)は「上古以後の和歌を撰び進むべし」との院宣を下され、御所(里内裏)二条殿の一角を「和歌所」とし、藤原定家(40歳)など6名を選者に定められた。
 しかも、その撰集作業は、4年後に控える『古今和歌集』の撰進(905)から満300年の記念の年に合わせて完成させるため、上皇みずから熱心に督励された。そのうえ、元久2年(1205)、とりあえず仕上がると、かつて『日本書紀』の講書に続いて行われた竟宴に倣い、『新古今集』完成祝賀の竟宴が行われている。
  石の上古きを今にならべ来し 昔の跡を又たづねつつ
 これは後鳥羽上皇(26歳)の竟宴歌であるが、明らかに『古今集』仮名序の「古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」をふまえ、醍醐天皇による「延喜の治」の一端を300年後に再現した喜びを表されたものにほかならない。
 ただ、その後も数年間「切継」という修訂作業が熱心に進められた。例えば、上皇が承元2年(1208)「住吉社歌合」で詠まれた1首は、当初の歌集になく、切継の段階で入れられたものである(合計33首採録)。
  奥山のおどろの下も踏み分けて 道ある世ぞと人に知らせん

 『禁秘抄』に王政復古への基本知識を網羅  改行               前段終わりの御製は、二条良基の著とみられる『増鏡』巻一にも収められ、「まつりごと大事と思されけるほど、著く聞えていといみじ(素晴らしい)」と称えている。しかも、その「まつりごと」は、つとに和田英松博士が「無道なる北条氏の如き者の、世にはびこり居るを追討し、政道正しく理非明かなる世なりと、天下万民にしらしめむとの御意にや」(『増鏡詳解』)と解される如く、やがて13年後(1221)に決行される倒幕(承久の挙兵)への意向を、ひそかに示されたものであろう。
 後鳥羽上皇は、和歌や連歌だけでなく、蹴鞠・相撲・水練・競馬・弓術・狩猟なども抜群に得意とされた。しかし、何より心がけられたのは、保元・平治の乱のころから頽れていた朝儀(公事・宮廷儀礼)を復興することにほかならない。
 そのために、承元4年(1210)温厚な土御門天皇(16歳)を譲位させて、気鋭の守成親王(13歳)を践祚せしめられた。そして翌年から、上皇(33歳)の御前で公家たちと朝儀について徹底的な論議を重ね、率先して儀式・行事の予行演習も繰り返された。その際の作法・装束などに関する300箇条近い上皇の記録(メモ)を寄せ集めたものが宸撰『世俗浅深秘抄』である。
 また、そのような朝儀の在るべき姿などを父上皇から親しく学んでこられた順徳天皇は、冒頭に掲げたような聖代懐古の御製だけでなく、まさしく父君に呼応して「奥山の柴の下道おのづから 道ある世にも会はむとすらむ」という王政復古への志念も詠んでおられる。
 しかも、承久3年(1221)父君と行動を共にするため譲位された順徳上皇(25歳)は、幼い仲恭天皇(4歳)に対する教訓書の意味もこめて、禁中(宮中)の心得を百項目近くに纏め上げられた。それが『禁秘抄』にほかならない。
 この『禁秘抄』は、巻頭に「およそ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(朝夕)敬神の叡慮、懈怠なかるべし……」と天皇の最も重要な御心得が示され、恒例、臨時の神事・仏事・政務・学芸から殿舎・調度など、高雅明快な宮中百科事典といえよう。しかも末尾に、小鳥合・虫合などの行事まであげておられるのは、幼帝へのご配慮であろうか。
 ところが、その後間もなく決行された承久の変は、脆くも官軍の惨敗に終わり、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流されるに至った(倒幕計画に無関与の土御門上皇も、みずから四国〈土佐→阿波〉へ移られた)。
 その際、和気清麻呂の子孫で侍医の和気長成が隠岐へ、その従兄弟の和気有貞が佐渡へ随従し、前者は18年後(1239)、後者は21年後(1242)、両上皇の最期を看取ったこと、また両島の御火葬塚が現地の人々により大切に守られてきたこと、さらに明治7年(1874)両上皇の御霊代が京都に遷幸されたことなど、悲劇のなかにも心打たれる佳話が多い。      土御門上皇も土佐から阿波   改行                     この後鳥羽天皇から皇位を承け次ぎ、それを順徳天皇に譲り渡された土御門上皇は、承久の挙兵に直接関与されなかった。しかし、幕府の独断により父君が遠島の隠岐へ、弟君も遠島の佐渡へ流されると、ひとり都に留まることをよしとせず、上皇(27歳)は閏10月10日、「土佐の国のはた(幡多)といふ所にーーいとあやしき(粗末な)御手輿にて下らせ給ふ」。その際、つぎのように詠んでおられる(「増鏡」。  改行⒉字さげ            うき世にはかかれとてこそ生まれけめ ことはりしらぬ我が涙かな   改行     それから1年半後の貞応2年(1223)5月、遠国の土佐より「せめて(都に)近きほどにと、あずま(幕府)より奏したりければ、阿波の国にうつらせ給」うことになった(「増鏡」)。それから7年半後の寛喜3年(1231)10月、4年前に阿波守護小笠原長経により造進された御所において37歳で落飾崩御された(「吾妻鏡」など)。その火葬塚の所在についれは、古来諸説あるけれども、徳島藩編纂「阿波志」により、明治5年(1872)宮内省が現在の鳴門市池谷を埋葬地と公認している。その隣に上皇を主祭神として祀る阿波神社がある。    改行  この土御門上皇は、謹慎生活10年の間、土佐でも阿波でも政治的な言動を一切されず、京都から付き従ってきた謹慎や女官たちと しばしば歌会をもよおしておられる。その歌稿を京都の元宮内卿藤原家隆(1158~1237)に送って批評を承け「土御門御集」におさめておられる。
なお、後鳥羽天皇の皇子のうち、承久の挙兵に参画されたのは、決して順徳院だけではない。たとえば雅成親王(順徳天皇の同母弟 1200~1255)は、田島の国(豊岡)へ、また頼仁親王(生母坊門延清娘 1201~1264)は、備前の国(児島)へ流され、そこで薨去されている。

【補注 著作・史蹟から再評価が進む後鳥羽・土御門・順徳天皇(上皇)】
 後鳥羽天皇(上皇)については、歴史学の立場から承久の事変に関する研究がある。最近の成果として、関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館)、坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』 (中公新書)、野口実編『承久の乱の構造と展開-転換する朝廷と幕府の権力』(‎戎光祥出版)、長村祥知『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館)、図録『特別展よみがえる承久の乱―後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏―』(京都文化博物館)などが挙げられる。
 また、歌人としての後鳥羽天皇については、丸谷才一『日本詩人選10後鳥羽院』(筑摩書房)(のち加筆して丸谷才一『後鳥羽院』筑摩書房→ちくま学芸文庫)、樋口芳麻呂『王朝の歌人10後鳥羽院 我こそは、にい島守よ』(集英社)、最近では五味文彦『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか』(角川選書)、松本章男『歌帝 後鳥羽院』(平凡社)、久保田淳監修・寺島恒世『和歌文学大系24 後鳥羽院御集』(明治書院)、寺島恒世『後鳥羽院和歌論』(笠間書院)などがある。
 後鳥羽天皇(上皇)の政治と文化の業績を総合的に理解する試みは、関前掲書より前から、目崎徳衛『史伝後鳥羽院』(吉川弘文館)、谷昇『後鳥羽院政の展開と儀礼』(思文閣出版)などがある。このような後鳥羽天皇及び順徳天皇の朝廷の復興や文化振興の延長線上に承久の変を位置づける議論としては、早く平泉澄『後鳥羽天皇を偲び奉る』『順徳天皇を仰ぎ奉る』がある(ともに『平泉澄博士神道論抄』(錦正社)所収)。
 順徳天皇(上皇)については、順徳天皇750年祭に際して、藝林会編『順徳天皇とその周辺』(臨川書店)及び藝林会・順徳天皇七百五十年祭奉賛会編『順徳天皇を仰ぐ 七百五十年祭記念講演記録』(新人物往来社)がある。また、その著作については、片桐洋一『八雲御抄の研究 正義部作法部・枝葉部言語部』(いずれも和泉書院)、佐藤厚子『中世の宮廷と故実 『禁秘抄』の世界』(岩田書院)、所功「順徳天皇撰『禁秘抄』全訳注稿」(『藝林』70巻2号以下などに連載中)がある。
土御門天皇(上皇)の和歌については、藤井喬「『土御門院御集』について〔附 土御門天皇関係年表〕」(『徳島文理大学研究紀要』25)、山崎桂子『土御門院御百首・土御門院女房日記 新注』(青簡舎)がある。なお昭和19年(1944)刊行の笠井藍水編『土御門上皇聖蹟之研究』(阿波聖蹟研究会)が、土佐・阿波における史蹟をまとめている。(久禮旦雄)