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親政と倒幕を断行された後醍醐天皇

令和4年11月1日

                              所 功
     建武中興の再評価

 日本史上の三大改革といえば、「大化改新」「建武中興」「明治維新」があげられる。しかしながら、この三大改革に関しては、戦前に過大な評価を受けた反動で、戦後しばらく不当に非難されてきた。
 けれども、まず「明治維新」については、昭和42年(1967)の明治百年前後から、歴史学界でも一般社会でも研究と啓蒙が進み、評価が高まってきた。また、「大化改新」については、昭和50年代に入るころから、7世紀代の金石文や出土木簡などの調査・解読に伴って『日本書紀』の史料価値も再評価されるようになったのである。
 さらに、「建武中興」(新政)についても、その前後から戦前の著書論文を批判的に継承し、単に古文書学や歴史学だけでなく、宗教学・民俗学・国文学などの成果を総合した研究が、次々と公刊されるようになり、いわゆる建武政権の全体像が解明されつつある。

     人材登用と政治改革

 第96代の後醍醐天皇は、正応元年(1288)、大覚寺統の後宇多天皇と五辻忠子(参議忠継の娘)の間に誕生された。前回に記したごとく、持明院統の花園天皇よりも9歳年上であったが、延慶元年(1308)、その皇太子に立てられ、10年後の文保2年に31歳で践祚しておられる。
 後醍醐天皇の治世は、およそ21年に及ぶが、当初4年近くは父君の後宇多上皇が院政をとられた。けれども、元亨元年(1321)末にそれを父君が返上されてから、名実ともに後醍醐天皇の親政となった。その特色は、それから1年後ことであるが、花園上皇の御日記に「近日、政道、淳素に帰す。君(後醍醐帝)すでに聖主たり。臣また人多きか」とみえるように、多くの人材を登用して政治を本来の姿に建て直そうとされていた様子がわかる。
 その人材として、例えば吉田定房を権大納言、万里小路宣房を権中納言、北畠親房を中納言兼検非違使別当に任じられた。ついで親房が大納言に進むと、別当の後任に参議の日野資朝、蔵人頭に宣房の子の藤房、五位蔵人に日野俊基などが用いられている。いずれも「才学」「器量」に優れていたが、とりわけ天皇に倣って僧玄恵から「宋学」(朱子学)の講義を受けており、花園上皇の御日記にも「近日、朝臣多く儒教を以て身を立つ。もっとも然るべし。政道の中興、またここに因るか」と評されている。
 このような人材を得て行われた治績は多方面にわたるが、まず朝儀の再興に努められた。みずから『建武年中行事』や『日中行事』を著しておられる。例えば、「元日節会」の再興について「当代ふるきにかへりて興されたるなり」と記され、また勅撰『続後拾遺集』所収の御製にも「時しもあれ けふ立つ春のしらべまで 古き跡みる九重の庭」と詠まれている。
 一般の政治改革としては、例えば「古き(後三条天皇朝)が如くに記録所を置かれて、夙(つと)に起き夜半に大殿ごもりて、民の憂ひ(訴訟)を聞かせ給ふ」た。そこで、「天下挙(こぞ)りて、これを仰ぎたてまつる」(『神皇正統記』)に至ったという。また、日照により不作で米価が高騰すると、米一斗銭百文という安い公定価格を設けられたので「諸人、喜悦の思ひ」(『東寺百合文書』)をなしたという。

      討幕計画の挫折

 このような親政を展開されるに当たっても、大きな障害となるのが鎌倉幕府の存在であった。そこで、後醍醐天皇はひそかに側近らと討幕計画を企てられた。けれども、正中元年(1324)、それが漏れて日野資朝・俊基などが捕えられ、資朝は遠く佐渡まで流されている。
 けれども、天皇はその挫折に屈せず、皇子の護良親王を天台座主に任じ、近畿の寺社勢力を味方につけて挙兵しようとされた。それも残念ながら、吉田定房の密告によって失敗したが、天皇は元弘元年(1331)内裏から京都南方の笠置(かさぎ)に逃れられた、そこで、河内の勇将楠木正成を召し出すとともに、討幕の檄を諸国に伝えて決起を促された。 それに対して、鎌倉の幕府は大軍を上洛させ、後醍醐天皇を廃して持明院統の光厳天皇を立て、翌2年、後醍醐天皇を捕えるのみならず、かつての後鳥羽上皇と同じく、隠岐へ流すに至った。これで万事休したかにみえた。
 けれども、護良親王や楠木正成が奮戦するうちに形勢逆転し、翌3年、後醍醐天皇は隠岐を脱して伯耆へ移られた。しかも程なく、幕府に叛旗を翻した足利高氏らが六波羅探題を攻め、また新田義貞らが鎌倉幕府を滅ぼすに及んだ。それによって、天皇は京都に戻られ、光厳天皇を退けて皇位に復されたのである。
 そして、直ちに幕政はもちろん、院政も摂関も全廃された。これは、かねてから理想と仰ぐ醍醐天皇(在位885~930年)による「延喜の治」を再現しようとされたのであろう。ちなみに、天皇の称号は、ほとんどが崩御後に贈られるにもかかわらず、当帝は生前に御自身で「後醍醐」と名づけられたことが、延元元年(1336)の銅鋺銘文(日光輪王寺所蔵)に「皇帝みづから後醍醐院を称したまふ」と刻されている。
 こうして宿願の討幕が成就すると、翌4年(1334)正月、年号を「建武」と改め、皇子の成良親王を鎌倉へ、義良親王を奥州へと遣わして、国内の防備を固められた。また中央では、「記録所」を再開するとともに、武士の論功行賞を定める「恩賞方」や所領紛争などを裁く「雑訴決断所」、治安維持に当たる「武者所」などを設けられ、地方では律令以来の国司と鎌倉以来の守護を併置されている。
 さらに、有力な社寺や豪族が各地に置いた関所の新設を禁じて通関料を抑え、また物資の流通交易と商業活動を盛んにしようとされた。しかも、貨幣を鋳造し紙幣まで発行して、その収入により大内裏の再建も計画されたが、実行には至らなかったようである。
 ただ、この中興政治では、上級公家が八省の卿(長官)に配され、有力武将が必ずしも優遇されなかった。そのため、建武2年(1335)北条氏の残党挙兵(中先代の乱)を討つと称して関東へ下った足利高氏が、新政に不平を懐く武士らを集め、再び叛旗を翻して京都へ攻め上っている。
 その軍勢は、奥州から馳せつけた北畠顕家らにより京都を追われ、いったん九州へ落ち延びた。しかし、尊氏(高氏)は、間もなく態勢を立て直して攻め上り、5月25日、湊川の決戦で楠木正成らを破った。そこで、天皇は比叡山へ脱出され、やがて翌3年=延元元年(1336)、大和国の吉野へと潜幸を余儀なくされたのである。

     吉野の朝廷の正当性                         

 それから3年間、天皇は京都回復の望みを持ち続けられたが、延元3年(1339)8月16日、52歳の生涯を閉じられた。『太平記』によれば、その際、右手に御剣、左手に『法華経』を持ち「玉骨はたとへ南山(吉野)の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕(京都御所)の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ず」と遺言されたという。
 なお、天皇は隠岐にも吉野にも三種の神器を「御身にそへられ」ていた(『増鏡』)。それは南朝の正統性・正当性を確証するものにほかならない。宗良親王が選集して弘和元年(1381)長慶天皇に上られた『新葉和歌集』の序にも「神代より国を伝ふるしるしとなれる三くさのたからをも受けつたへ……」とあり、その最後に後村上天皇の「四の海浪もおさまるしるしとて 三の宝を身にとぞ伝ふる」「九重に今もますみの鏡こそ なほ世を照らす光なりけれ」との御製を掲げている。

【補注】実証研究の蓄積が進む後醍醐天皇のご事績
 後醍醐天皇のご事績については、一時期「異形の王権」などと言ったセンセーショナルな評価も行われてきた。しかし、近年では後醍醐天皇の事績について、鎌倉時代の朝廷・幕府のもとで行われた政策を継承したものが多く、また室町幕府に継承されたものもあり、決して同時代において特殊な政策とは言えないことが指摘されている(日本史史料研究会・呉座勇一編『南朝研究の最前線』)。
 また後醍醐天皇ご自身についても,和歌に造詣が深く、古典(特に『源氏物語』)を愛し(森茂暁『後醍醐天皇』)、あるべき朝廷の姿を記した『建武年中行事』などを著され、また笛や琵琶を好んで演奏された文化的君主であることが注目されている。しばしば「異形」とされる密教への傾倒も政治的色彩の強い『太平記』の記述が過剰にクローズアップされた結果であるとされている(兵藤裕己『後醍醐天皇』)。
 しかし天皇のご事績は、古典をもとにあるべき国の姿を追究され、神仏への信仰に努められたとも評価できる。また後醍醐天皇のご事績を中心とした『太平記』の世界がその後の日本の歴史に大きな影響を与えた。後醍醐天皇のご事績とそれが後世に与えた影響についての本格的研究は今後の課題である。(久禮旦雄)
【参考文献】
新田一郎『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社→講談社学術文庫)
河内祥輔・新田一郎『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』(講談社→講談社学術文庫)
日本史史料研究会・呉座勇一編『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社歴史新書y→朝日文庫)
兵藤裕己 『後醍醐天皇』(岩波新書)
森茂暁 『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書)
豊永聡美『天皇の音楽史』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)
伊藤大輔・加須屋誠『天皇の美術史2 治天のまなざし、王朝美の再構築』(吉川弘文館)
和田英松・所功『建武年中行事註解』(講談社学術文庫)
佐藤厚子『中世の国家儀式-『建武年中行事』の世界-』(岩田書院)