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戦国の乱世にも皇威を護り通された乱世の天皇

令和5年1月1日

                                        所 功
  父宮の教訓に学ばれた後花園天皇

 前回略述したごとく、第101代の称光天皇は、病弱のため皇子に恵まれず、正長元年(1428)28歳で崩御された。そこで、後小松上皇の叡慮により、「猶子」(養子)となされた伏見宮第二代貞成親王の嫡男彦仁王(10歳)が、直ちに践祚して後花園天皇となられたのである。
 この父宮の貞成親王は、少年天子のために、天皇が持明院統の嫡流として即位されるに至った経緯と、帝王として必要な修養心得などを、仮名まじり文の『椿葉記』(一名「正統興廃記」)にまとめて奏覧し、晩年に「後崇光院」の尊号を贈られた。
 その中に、天皇は何よりも学問を修められるべきであり、特に「文学」(漢文・詩歌)と「才藝」(才知と技藝)を嗜み、群書に通じ和歌を詠むこと、また雑訴などは有能な臣下に勅問して任せるか、先例故実に従って沙汰すべきこと、さらに伏見宮家が受け継いだ琵琶の習練に励まれるべきこと、などが具体的に示されている。
 かような父宮の教訓に導かれて育たれた後花園天皇は、早くから『孝経』『論語』『孟子』などを熱心に学んでおられる。
 その36年に及ぶ在位中、近畿一帯で「土民蜂起」して幕府に徳政を求めた。また足利一族や守護大名らの争乱も続き、さらに寛正2年(1461)、西日本で中世最大の飢饉も生じた。しかし、時の八代将軍足利義政は、人々の困苦をよそに遊楽に耽っていた。そうした有様に心を痛められた天皇は、次のような漢詩を賜って厳しく誡められたと伝えられる(『新撰長禄寛正記』)。
  残民争いて採る首陽の蕨
  処々庵を閉ぢ竹扉を鎖す
  詩興の吟は酣なり春二月
  満城の紅緑誰が為にか肥ゆ
 その3年後、46歳で譲位の際、皇太子成仁親王(後土御門天皇)に「御文」を贈り「ご進退などは……静かに重々と」「御こは(声)色……やはらかにのどやかに」と具体的に注意され、また順徳天皇の『禁秘抄』をふまえて「御学文(間)を先づ本とせられ……能々御稽古候べく候。その外に公事かた、詩歌・管絃・御手跡(習字)などは能にて候」と教示しておられる。それらをみずから実践された天皇は、『応仁略記』に「御徳行、詩歌、管鳳笙、絃奏筝、入木(書道)、蹴鞠、画図等、近来の聖主」と称賛されている。

  朝儀復興の努力と心経の書写奉納

 次の後土御門天皇も、在位36年余に及んだが、その間に応仁・文明の大乱(1467―77)で京中の大半が兵火に罹っている。それに伴って、宮中では恒例の朝儀(祭事・節会など)が、しばしば中止され、やがて廃絶を余儀なくされたものも少なくない。
 そこで、天皇は大乱が終息すると、文明12年(1480)元日早朝、土御門内裏(現在の京都御所に相当)で久しぶりに「四方拝」を行われ、また避難先から戻ってきた公家たちに朝儀の研修や古典(『日本書紀』『江家次第』など)の講読を勧められ、さらに伊勢の神宮に「天下安全、朝儀再興」を祈念しておられる。
 これは、次の後柏原天皇も同様である。天皇は明応9年(1500)37歳で践祚された。しかし、往代のような即位式をあげるに必要な費用(50万疋=約5千石)を幕府が用意できず、各地の戦国大名に献金を募ったが集まらないため、20年余り延び延びとなり、ようやく大永元年(1521)、将軍家と本願寺の献金(両方で2万疋)を得て簡素に行われている。
 けれども、その間に天皇は、父帝の御志を継いで朝儀の再興に努められた。どのような儀式にも相当な費用を要する。そこで、幕府などに援助を求め、元日の節会や正月8日から一週間の大元帥法などを復興され、また賀茂祭や春日祭の勅使派遣も再興しておられる。
 この後柏原天皇は、大永5年「般若心経」を書写して延暦寺と仁和寺に献納し、「蒼生(国民)を利せんがため、聊か丹棘を凝して般若の真文を書写す。……仰ぎ冀くは、三宝知見、万民安楽……」と祈祷されている。
 ついで、この翌年に践祚して32年在位されたのが、次の後奈良天皇である。しかし、その即位式は践祚より10年後の天文5年(1536)、周防の大内氏から20万疋、越前の朝倉氏から1万疋の献金を得て、なんとか挙行される有様であった。しかも、同9年、前年来の洪水と凶作により全国的な飢饉が生じたので、天皇は「般若心経」を数十巻も書写され、25か国の一宮へ勅使を遣し奉納せしめられた。その奥書に次のごとく記されている。
今茲、天下大疫、万民多く死亡に陥つ。朕、民の父母として徳覆ふ能はず。甚だ自ら痛む。竊かに般若心経一巻を金字に写し、(醍醐寺)義尭僧正に供養せしむ。庶幾くは、あゝ疾病の妙薬と為さんことを。
 このように天皇は、まさに「民の父母」として人々の苦難を救おうとされた。しかし、朝廷の経済力は衰退の極にあり、朝儀の再興も容易に進まなかった。そこで、践祚から20年経た天文14年(1545)、伊勢の神宮に次のような宣命を奉っておられる。
大嘗会、悠紀・主基の神殿に自ら神供を備へること、その節を遂げず。あへて怠れるに非ず、国の力の衰微を思ふ故なり。……宝位今に二十年、未だ心中の所願を満たさず。その故は……下克上の心盛んにして暴悪の凶族ら所をえたり。……神明の加護に非ずんば、聖運の延長も憑み少なし。……神冥納受を垂れ給ふべし……。

  織田信長を登用された正親町天皇

 さらに、弘治3年(1557)践祚して30年近く在位されたのが、次の正親町天皇である。その践祚当時、幕府は衰退し各地域に群雄が割拠しており、即位式は毛利元就の祝儀(金1000疋など)で辛うじて行われた。しかし、まもなく急速に勢力を伸ばし「天下布武」に乗り出したのが、織田信長にほかならない。
 信長は皇室を尊崇しながら、その権威を巧みに利用して天下に号令した。それゆえ、正親町天皇は信長に翻弄された傀儡(操り人形)のごとく見られがちであった。しかし近年は、むしろ政治的な才覚にすぐれ、信長を最もてこずらせた存在と解されている(今谷明著『信長と天皇』講談社現代新書参照)。
 例えば、元亀元年(1570)、信長が越前の朝倉攻めに先立ち入京した際、天皇は戦勝祈願のため「内侍所にて御千度(祓)させら」れ、また石山本願寺と対峙した際は、天皇が勅書を下して講和の調停役を務めておられる。
 ついで天正元年(1573)、天皇は信長から譲位を迫られても、頑として受け入れられず、逆に信長を(彼が内々に要望したとみられる)「将軍」に推任して活用しようとされたことが、伝奏勧修寺晴豊の日記などにより知られる。
 このように戦国乱世の歴代天皇も、決して有名無実の存在ではない。ひたすら君徳の涵養に励み、困窮する庶民のため神仏に祈り、時々の権力者に諫言を呈したり官位を与えたりして、伝統的な皇威を護り通されたのである。

【補注】研究の進展とともに評価の高まる戦国時代の天皇・皇室
 戦国・安土桃山時代の天皇・皇室の研究については先駆的業績として、明治26年(1893)に刊行された廣池千九郎『皇室野史』(史学普及雑誌社→『廣池博士全集』第1巻、道徳科学研究所)があり(橋本富太郎・所功「『皇室野史』の再発見」『モラロジー研究』89号)、古典的研究として奥野高広『皇室御経済史の研究』(畝傍書房)、同『戦国時代の宮廷生活』(続群書類従研究会)などがあった。
近年、戦国・安土桃山時代の皇室の政治的動向について高い評価を与えたのは、今谷明氏の『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店→講談社学術文庫)、『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』(講談社現代新書→講談社学術文庫)である。
 その後、中世・近世の天皇・皇室の研究の進展とともに、戦国時代の天皇・皇室についても多くの著作が刊行されている。それぞれの天皇について個別の解説を加えたものとして久水俊和・石原比伊呂『室町・戦国天皇列伝』(戎光祥出版)があり、また戦国・安土桃山時代の天皇をとりまく制度については石原比伊呂『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版)、末柄豊『戦国時代の天皇』(山川出版社)、神田裕理『朝廷の戦国時代』(吉川弘文館)、神田裕理編・日本史史料研究会監修『ここまでわかった!戦国時代の天皇と公家衆たち 天皇制度は存亡の危機だったのか?』(洋泉社歴史y新書→新装版、文学通信社)、久水俊和『中世天皇家の作法と律令制の残像』(八木書店)がある。また同時代の皇室経済については渡邊大門『戦国の貧乏天皇』(柏書房)、美術については高岸輝・黒田智『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代』(吉川弘文館)が刊行されている。
 これらの研究の成果として、室町時代から戦国時代にかけての天皇・皇室と朝廷は一般的に言われているような無力な存在ではなく、一定の影響力を発揮しつつ、室町幕府や戦国大名と協調し、秩序の維持に努めていたことが明らかにされている。(久禮旦雄)