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中継ぎと後見の功績大きい後桜町女帝(上皇)

令和5年4月1日

                                           所 功
  宮内省編『天皇・皇族実録』の編刊と複製

 歴代天皇に関する史料集は、従来もさまざまな形で数多く出ているが、とりわけ近年、きわめて重要なものが公刊されつつある。それは、大正年間から昭和10年代にかけて宮内省図書寮で編纂された『天皇・皇族実録』(全286冊=影印刊本136巻)にほかならない。
 その内容は、神武天皇から孝明天皇までの歴代天皇および全皇族の御実績を編年体で簡潔な綱文(要約文)と確実な史料により明示したものである。しかも、戦時中に僅か数部刊行され、長らく部外秘であったが、数年前から宮内庁書陵部の所蔵本が研究者に閲覧可能となった。その上、平成17年(2005)近世部分(正親町天皇から孝明天皇の実録)が、ゆまに書房より複製出版され始めたのである(平成31年完結。ゆまに書房。昨年からWeb版も刊行中)。
 ちなみに、廣池千九郎博士(モラロジーの創建者)は、明治30年代に『歴代御伝』編纂の構想を立て、醍醐・村上両天皇の御伝稿本を試作し、田中光顕宮内大臣に上申されたことがある。このような民間有志の要請も動因となり、やがて大正9年(1920)から公的な『天皇・皇族実録』が編修されるに至ったと考えられる(拙稿「『歴代御伝』の構想と稿本」『国書逸文研究』第10号、同「『天皇・皇族実録』の成立過程」『産大法学』第40巻第1号。今年、方丈堂出版『未完論考デジタル集成』④収録予定)参照)。
 今回は、この『天皇・皇族実録』などに基づき、第117代の後桜町女帝の御事跡を略述しよう。

  弟君から甥君への中継ぎ8年余

 前回とりあげた霊元天皇の後は、東山――中御門――桜町――桃園の4代にわたり直系父子が継承されている。けれども、7歳で践祚された桃園天皇が、それから16年後の宝暦12年(1762)7月、22歳で急逝されてしまい、当時まだ5歳の皇嗣英仁親王では御幼少すぎる感があった。
 そこで、皇嗣の外祖父にあたる関白近衛内前らが協議して、しばらくの間中継ぎの天皇を立てることになった。その結果、はからずも皇位に就かれたのが、桃園天皇の異母姉(生母二条舎子)智子内親王=後桜町天皇(23歳)にほかならない。第109代明正天皇の譲位から120年ぶりの女帝である。
 この後桜町女帝は、父君に勧められて11歳のときから、有栖川宮五代継嗣の職仁(よりひと)親王(東山天皇の異母弟)に師事され、和歌と書道を学ばれた。その見事な成果は、同年から晩年まで詠まれた御歌が約2000首にものぼる(しかも数冊の宸筆本がある)。また16歳のときから25年間にわたる御日記が流麗な宸筆で綴られ現存している(京都御所東山御文庫架蔵)。
 それらの解読・研究は、まだ緒に就いたところである。私は専門外ながら、数年前から十余名の研究仲間と御日記を解読してきた。その一端を紹介させていただこう。
 例えば、践祚の翌年(宝暦13年)11月27日の即位礼については、同年の御日記から関係記事を整理した抜書まで作っておられる。これは、数年後に皇位を譲り渡す甥君英仁親王への参考資料として用意されたものであろう。
 また、その翌年(明和元年)11月8日に実施された大嘗祭と一連の節会などは、奈良末期の称徳天皇以来およそ千年ぶりの成年女帝による大祀である。そのため、準備を入念に進められたことも、新調の「さいふく(斎服)」を召されて悠紀殿・主基殿で供饌・共食の秘義を務められたことなども、順を追いながら的確に記録しておられる。
 さらに、毎年の新嘗祭は、室町時代から中断し、元禄元年(1688)より吉田神社の宗源殿で「新嘗御祈」を代行していたが、ようやく桜町天皇の元文5年(1740)より宮中で復興された。とはいえ、女帝の後桜町天皇が旧暦11月中下旬(新暦12月冬至ころ)の最夜中に板張の殿内で神事を斎行されることは、決して容易にできることではなかったにちがいない。
 そのためか、当初は出御されず掌侍(女官)を代参せしめておられる。しかるに、やがて明和6年(1769)11月13日には、神嘉殿代の南殿(紫宸殿)で「神ぜん(神膳)の事」をみずから務められ、翌7年は「夕の儀」「暁の儀」にも「豊明節会」にも出御されたことが、御日記や女官の『御湯殿上日記』などに詳しく書かれている。

  後桃園天皇と光格天皇のため後見に御尽力

 このように後桜町天皇は、未婚の女帝ながら、男帝と大差なくマツリゴトに勤しんでおられる。しかも、当初から、甥君への中継ぎを役割とされていた。
 それゆえ、たとえば明和4年(1767)、10歳の英仁親王が「どく書(読書)」されるよう『孝経』(同七年には『論語』)などを書き下し文にして贈られたり、翌五年、親王の立太子・元服の儀がすむと「伊勢・石清水・賀茂下上・松尾・平野・いなり・春日」の七社に奉幣し、「朝てい(廷)はんじやう(繁昌)、歌道はん栄、天下太平……東宮するすると成長、御長久御はんじやう」と祈願するなど、儲君(御継者)に深い叡慮を注いでおられる。
 ところが、明和7年(1770)11月末、後桜町女帝(31歳)の譲りを受けて践祚された英仁親王=後桃園天皇(13歳)は、9年後の安永8年(1779)10月、父帝と同じ22歳で病歿されてしまう。そこで、関白九条尚実らの意向に同意された後桜町上皇(40歳)は、かつて新井白石の建策により創立された閑院宮(中御門天皇異母弟)の孫にあたる兼仁(ともひと)親王(9歳)を後桃園天皇の「御養子」として践祚せしめ、光格天皇とされたのである。
 この光格天皇は、14歳で先帝の遺児欣子(よしこ)内親王(6歳)を中宮に迎えられ、文化14年(1817)まで在位38年に及んだ。朝廷の権威回復に大きく貢献された近世の名君といわれる。けれども、その初期に幼帝を良く助け、常に君徳涵養を促されたのが、後桜町上皇にほかならない。
 例えば、天明7年(1787)全国的な大飢饉に見舞われ、京都近在の窮民たちが御所へ押し寄せたところ、上皇(48歳)は「仙洞御所よりりんご(和リンゴ)三万(箇)、一人へ一つあて下され」(『落葉集』)ている。また光格天皇(17歳)も、将軍徳川家斉にあて「民草に露の情けをかけよかし代々の守りの国の司(つかさ)は」との御製を贈られた。
 さらに、寛政11年(1799)に至っても、上皇(60歳)が天皇(29歳)に高邁な教訓を与えておられたことは、次のような天皇の御返書により知りうる。
――「(上皇)仰せの通り、身の欲なく天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候事、人君なる物の第一のおしへ、『論語』はじめ……仰せと少しもちがひなき事……忝く存まいらせ候。……正直・仁恵・誠信、第一の事にて候。……御厚意御念比の御書付、実に……有がたく存まいらせ候。……」(東山御文庫架蔵)。
 この後桜町女帝は譲位後43年にわたり、このように2代の天皇の見事な後見役を務められ、文化10年(1813)閏11月、74歳の天寿を全うされた。

【補注】
近年の後桜町天皇の事績研究
 後桜町天皇の概略を記したものに藤田覚『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』(講談社→講談社学術文庫)がある。
ご生涯全体については、所京子「後桜町女帝年譜稿」(『史窓』第58号)、同「後桜町上皇年譜稿」(『岐阜聖徳学園大学紀要 外国語学部編』第40集)と(ともにリポジトリ公開)、それに基づく所京子「後櫻町天皇(女帝・上皇)の御生涯と御事績」(『藝林』63巻2号)がある。
 また、宮内省編『後桜町天皇実録』(全4巻、ゆまに書房刊行)から綱文を抄出した所功「近世女帝のマツリゴトに関する『天皇実録』抄」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』11)、同「後桜町女帝の公事関係『実録』(抄)」「後桜町女帝の歌道伝授関係記事(抄)」(同『紀要』17)、「譲位後の後櫻町女帝に関する『実録』抄(上)後桃園天皇の後見時代」(『藝林』66巻1号)があり、それに基づく所功「研究ノート 後桜町女帝の政事・歌道に関する覚書」(同『紀要』17)がある。
 さらに後桜町女帝宸記研究会による、践祚から大嘗祭にいたるまでの記事を中心にした注釈『後桜町天皇宸記』が京都産業大学日本文化研究所紀要に掲載された(全8回)。同研究所では平成25年(2013)に「後桜町天皇二百年祭記念シンポジウム 女帝の歴史と文学—宸翰を中心に—」を開催している(その内容の概略は『京都産業大学日本文化研究所所報』21に掲載)。
このほか、後桜町天皇の宸筆については所功「明正・後桜町両女帝の宸筆に関する覚書」(同『所報』11)、同「後桜町女帝の書写伝授された仮名論語」(同『紀要』19)、同「明正上皇と後桜町上皇の宸筆御消息」(『モラロジー研究』86)がある。
また和歌については飯塚ひろみが「東山御文庫蔵『後桜町院天皇御製』(宸翰)の紹介と翻刻―後桜町天皇の和歌活動」として『京都産業大学日本文化研究所紀要』に(全5回)、「東山御文庫蔵『後桜町院天皇御製』 内親王時代の和歌」として『藝林』に掲載している(全11回)ほか、同「後桜町天皇の即位と和歌御会始」(大江篤編『皇位継承の儀礼と歴史』臨川書店)、小林一彦「後桜町天皇御製「御法楽五十首和歌」(住吉大社蔵)をめぐって」(鶴崎裕雄・小髙道子編著『歌神と古今伝受』和泉書院)、盛田帝子「後桜町天皇と近衛内前ー朝廷政治と歌道伝受」(浅田徹・小川剛生ほか編『和歌史の中世から近世へ』花鳥社)などがある。
その治世における祭祀・儀礼については宍戸忠男「後櫻町天皇と神事服攷」(『神道宗教』196)・同「後櫻町天皇と神事攷」(『神道宗教202』)、野村玄「女帝後桜町天皇の践祚とその目的」(『日本歴史』701)、所功「後桜町女帝の即位図と宝冠」(同『所報』21)、同「後櫻町女帝の即位式用「宝冠」考」(同『紀要』20)、同「後櫻町女帝の譲位式と『櫻町殿移徙行列図』」(同『紀要』23)、磯田道史「後桜町天皇と光格天皇の譲位」(御厨貴編『天皇の近代』千倉書房)、津田大輔「女帝後桜町天皇の礼服の仕様決定」(武田佐知子・津田大輔『礼服』大阪大学出版会)、松本公一「後桜町天皇の葬送と池坊」(『文化環境学』4)などがある。(久禮旦雄)
参考文献
所京子「後桜町女帝年譜稿」(『史窓』第58号)
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/704
所京子「後桜町上皇年譜稿」(『岐阜聖徳学園大学紀要 外国語学部編』第40集)
(久禮旦雄)