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光格天皇「勅題・勅点」宸筆(享和元年)

平成29年6月21日

当センターの「皇室関係資料文庫」において、最近貴重な史料を京都の古書店から入手することができた。その概要を簡単に紹介させて頂こう。

まず古書目録には「光格天皇勅題勅点 風見実秋和歌詠草 一括」と題し、「享和元年 四月十日勅題 同五月十五日勅点。勅題二紙 32・5×45・7糎。勅点入 風早実秋和歌 詠草七紙、各36・3×49・8糎」との説明がある。
そこで、現物をみると、最初の包紙に「宸翰/享和元四十 於御前拝領 勅題二十首」と墨書されている。また同形同大の六つの包紙(各々左上)に、左の墨書がある。

(イ)享和元年四月十日 賜御題二十首。五月一五日賜御点。(一紙①)
(ロ)享和元年 勅題二十首之内 (一紙②)
(ハ)勅点/享和元四十 勅題之内(一紙③)
(ニ)勅点/享和元四十 勅題之内(一紙④)
(ホ)勅点/享和元 勅題二十首之内 書三首(一紙⑤)
(ヘ)勅点 享和元/勅題二十首之内(二紙⑥⑦)

このうち、最も重要なことは、最初の中味が「宸翰」(宸筆)かどうかである。これを検証するため、『宸翰英華』(帝国学士院編刊.昭和十九年。のち思文閣出版復刻)を紐解くと、幸い同じ享和元年(一八〇一)の三月十四日付「宸筆宣命案」が収められている(御物 京都御所東山御文庫所蔵)ので、それと対比したところ、見事に符合する字形が極めて多い。(別掲の写真に○(全体)と□(部分)で囲んだ文字)。

ちなみに、この宣命案は、『宸翰英華』の解説(下巻五一九頁)するとおり、践作から二十三年目の寛政十三年(一八〇一)が「辛酉」の厄運にあたるので、光格天皇(31歳)みずから「災難」を「攘却せしめ」るため「享和」と改元され、「皇太神」を祀る伊勢の神宮に勅使(権大納言藤原愛徳)を遣わされた時の宣命の案文(下書き)である。全文きわめて丁重に楷書で記されており、その筆運び(筆癖)が、この勅題「二十首」と殆んど一致する。従って、これは正しく光格天皇の宸筆と判定してよいと思われる。

一方、(イ)~(ヘ)の中味を開くと、①~⑦の右下に「實秋 上」とある。この実秋は、目録のとおり「風早実秋」とみられる。『公卿補任』等によれば、彼は羽林家の風早家に宝暦十年(一七六〇)生まれ、享和元年(一八〇一)当時(42歳)従三位右近衛権中将で、まもなく正三位参議、文化元年(一八〇四)「大歌別当」に任じられ、正二位権中納言まで進み、文化十三年(一八一六)57歳で薨じている。父公雄と共に、光格天皇の信任厚く、和歌にも香道にも優れていたという。

この風早実秋が、光格天皇から「御前に於て拝領」した「勅題二十首」に即応して上った「詠草」は、(イ)~(ヘ)(①~⑦)に記されている。すべて実秋の自筆と認められるが、御題ごとの詠草の右肩に天皇の「勅点」が加えられている。勅題は楷書、詠草は少し崩し字で変体仮名も少なくないが、読みやすいよう、当用の平仮名に改め、句間を空け濁点を加えて翻刻すれば、左の通りである。(勅点は初句の右肩の傍線)

① 實秋上
二十首之内
(ア)朝更衣
1 たれもけさ 袂ゆたかに 夏衣 きのふのはるを しのぶとはなき
2 よしや世の ならひにかへむ おしむとて 今朝すぐすべき 夏衣かは
(イ)新樹露
3 出(いづ)る日に みがける露の 玉かしは しげる葉守の 神もめづらし
4 起出てむかふもすずし わか緑 しげる梢の しののめの露
(ウ)尋餘花
5 分(れ)ても なべて青葉の 山ざくら いづくにのこる はなをたづねむ
6 夏山のしげみの蝶の をのれもや のこる桜を たづねゆくらむ

② 實秋上
(エ)待郭公
7 またれつゝ こよひもふけぬ ほとゝぎす ほどは雲井の ひと聲もかな
8 村雨の はれゆくよひの月にしも 猶またれける やまほとゝぎす
(オ)聞郭公
9 あやめひく 五月の空の郭公 ねにあらはれて なかぬ夜もなし
10 よをふかく なきてぞすぐる 郭公 たか里よりか かへるさの空
(カ)夕早苗
11 夕かぜの 田面(たのも)のさなへ うちなびき 葉末にのぼる 露のすずしさ
12 あま衣 日も夕ぐれの みなと田に なをおりたちて さなへとるなり

③ 實秋上
(キ)故郷橘
13 あやめ草 ふきし昔や しのぶらむ むくらにうづむ 軒のたちばな
14 ふる郷に 五月わすれず 咲勾ふ かげやむかしの 軒のたち花
(ク)五月雨
15 さほのうちや いく日かかけて 夏衣 ほすひまもなき さみだれの比(ころ)
16 斧の音も たえていく日ぞ 五月雨に うきたつ雲の 水尾の杣山
(ケ)夜水鶏
17 ふくるまで くゐなぞたゝく ねやの戸を つれなくあけぬ 人もあるらし
18 よひながら たゝく水鶏の 聲すなり たかねやのとか また来(はやも)さしけむ

④ 實秋上
(コ)夏月涼
19 夏山の たかねを月の 出るより すずしさそひぬ 袖のさよかぜ
20 風よりも すずしかりけり まつの戸に さしいる夏の 月のひかりは
(サ)寄山戀
21 こひそむる けふの思ひの ちりひちも つもらばふじの 山ともえなむ
22 もし人の いは木ならばと いはて山 いはでぞしのぶ ふかき思ひも
(シ)寄海戀
23 千重に思ふ 心のそこを しらせても いなみの海の 沖つしら波
24 したへども 人のこころは あらうみの なみだを袖に かけぬまぞなき

⑤ 實秋上
(ス)寄河戀
25 いまははや 夢のちぎりの 逢瀬さへ たえていく夜の 床の山河
26 あふせなき ちぎりよいかに はや川の せぜのみなはの 消えかへりても
(セ)寄野戀
27 百草の 露とみだれて 物ぞ思ふ ひとのこゝろの 秋の野風に
28 わが中は 山のかげ野の 小(こ)ざゝ原 うきふししげく 露ぞみだるゝ
(ソ)寄里戀
29 あやなくも つきぬ思ひを すがはらや ふしみの里の ゆふべ明(あけ)ぼの
30 なごりなく たえにけるかな かちよりぞ こはたの里の くれもありしも

⑥ 實秋上
(タ)暁更鶏
31 あかつきの ゆふつげ鳥も かねのをとに おどろかされて 時やつくらむ
32 道のべの かや(茅)屋の月の 有明に ひとは音せて とりがねぞする
(チ)庭上竹
33 いくちよも 君につかへて あふぎみむ 雲井の庭の くれ竹のかげ
34 うらやまし 生そふかげも をのづから なをき姿の 庭の呉竹
(ツ)漁舟火
35 あま小舟 よるもや波に つりの糸の くるゝ江とをく ともすいさり火
36 くれふかき 沖の波まに つり舟の かずもあらはに いさりたくみゆ
(テ)獨述懐
37 君が代に あはずばしらじ たらちねの 道のをしへに こめし心も
38 よしやたゞ 道の恵に まかせ置て おろかなる身も 猶わけてみむ
(ト)社頭榊
39 ひくまへに 君が代いのる 袖かけて 三宝の榊 かほりきにけり
40 みづ垣や神のゆふしで ふく風に かほりもきよく なびくさかき葉

 

 

〈追記〉 光格天皇の和歌に関する御事績は、盛田帝子氏著『近世雅文壇の研究』(平成二十五年、汲古書院)に詳しい。その要点を左に抄出しておこう。
光格天皇は、九歳で皇位に就かれたが、それから二年後の天明元年(一七八一)正月、後見役の後桜町上皇に「御代始」和歌御会始の詠草添削を受けて以来、実父の閑院宮典仁親王や実兄の美仁親王および日野資仁・烏丸光祖などと共に、歌道の修練に励まれた。

そして寛政五年(一七九三)十二月、二十三歳で五十四歳の後桜町上皇より「天仁遠波(てにをは)伝授」(御所伝授の初段)を受けられると、早くも翌六年正月から門弟の指導を始められた。それ以後の宮廷歌会に公家たちの詠出する全ての歌に天皇の合点(勅点)が施されており、同十年正月、この風早実秋(四十歳)も入門している(同書三六・五四~五・六五頁)。

盛田氏は、この光格天皇が門下の歌に合点を加えたり添削して施された実例をいくつかあげておられる。しかし、今回紹介した享和元年「四月十日勅題」「五月十五日勅点」の例は見当たらない。その意味でも、この宸筆と認められる勅題と勅点、門人「風早実秋和歌詠草」は、光格天皇朝歌壇の研究に寄与する新史料といえよう。

念のため、宮内省編『光格天皇実録』の享和元年四月・五月には、関係記事が見当たらない。また『列聖全集』所収「光格天皇御製」「同拾遺」の同年月には、「葵/笛」「新樹/早苗」「首歌月/梅薫枕/橋夕立/薄暮初雁」等の題で詠まれた御製がある。けれども、風早実秋の賜った勅題二十首と同じものはない。
なお、この詠草を、国文学者で冷泉家の門人でもある樋口百合子氏(奈良女子大学古代学学術研究センター協力研究員)に調べて頂いたところ、私の読み取りの校正だけでなく、5と18に見せ消ち(直し)があることを指摘された。これは光格天皇が施されたお手直しかと思われ、そうであれば一層貴重な資料と考えられる。(平成二十九年五月二十一日稿)

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A—光格天皇の宸筆と推定される「勅題二十首」
B—光格天皇宸筆の伊勢神宮に「享和」改元を伝える宣命案文
「宸筆宣命案」と対比したところ、見事に符合する字形が極めて多い(写真に○(全体)と□(部分)で囲んだ文字)。


光格天皇「勅題・勅点」宸筆(享和元年)