• ミカド文庫について
  • 歴代天皇の略伝
  • 皇室関係の文献目録
  • 皇室関係の用語辞典
  • 今上陛下の歩み

皇室会議を経て皇位継承の儀式を考える

平成29年12月7日

所  功

   「皇室典範特例法」の要点

このたび十二月一日に「皇室会議」が開かれたのは、六月初めに成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づいている。念のため、「特例法」の要点は次の通りである。

まず第一条で、今上陛下は三十年近く「象徴天皇としての公的な御活動に精励してこられた」が、八十代半ばの「御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること」、それを国民の多くが「理解し…共感していること」などから、「皇室典範第四条の規定(「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する」)の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現する」ために「必要となる事項を定める」としている。

ついで第二条に、「天皇は、この法律の施行の日限り退位し、皇嗣が直ちに即位する」とある。それを承けて、第三条・第四条で「上皇」「上皇后」の称号および「陛下」という敬称など、また第五条で「皇嗣」は「皇太子の例による」ことなどを定めている。

しかも、詳細な「附則」の第一条で、この法律の施行日(譲位日)は「政令で定める」が、それに先立ち、「内閣総理大臣は、あらかじめ、皇室会議の意見を聴かなければならない」こと、第三条で、皇室典範の付則の中に、この特例法が典範と「一体をなすものである」との一項を加えることなどを明示している。

さらに、この特例法を制定する際に「国会付帯決議」として、「一、政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について…本法施行後、速やかに、皇族方の御事情等を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること」および「三、政府は、本法施行に伴い元号を改める場合…国民生活に支障が生ずることのないよう…万全の配慮を行うこと」を政府に強く求めている。

   皇位継承の時期と一連の儀式

これを承けて、半年後の十二月一日、皇室会議が開かれた。そこで約一時間協議の結果、「特例法の施行日(譲位日)は、平成三十一年四月三十日とすべき」であり、「皇位の継承がつつがなく行われるよう、政府において遺漏なく準備を進める…必要がある」との意見が取り纏められたのである。

この施行日には、従来いろいろな案が出された。けれども、皇族代表二名と三権代表八名で構成される皇室会議において決定された意見は、尊重しなければならない。私としては、平成三十年一月七日の昭和天皇三十年式年祭が今上陛下により斎行されることを切望してきたから、それ以後であれば、三月三十一日でも四月三十日でもかまわない。

むしろ、これから検討される重要な課題は、皇位継承に関する儀式を、いつどこでどのように行うかである。ここで注意すべきは、法的な観念と事実の認識とを、いかに近づけるかの工夫である。会議直後に山本信一郎宮内庁長官も記者会見で次のように述べておられる。

「政令で定められれば…(平成三十一年)四月三十日が終わるときに、退位が法律上の効果として生じる。即位については書いてないが、五月一日0時0分に間髪を入れず新天皇として即位される、という解釈しかない。」(読売新聞など)

これは法的な替わり目の解釈として正当であろう。しかし、それは抽象的な観念であって、具体的には然るべき所で然るべき形の儀式が行われてこそ、皇位が継承されたという事実を一般の人々も認識することができよう。

そこで、これから約一年五ヶ月後に行なわれる儀式の在り方を想定してみると、約三十年前の例が参考になる。もちろん、前回は崩御、今回は退位=譲位が起点、という違いはあるけれども、それに続く儀式のもつ意味は変わらない。

   前回と今回の儀式の在り方

すなわち、昭和六十四年(一九八九)一月七日の午前六時三三分、昭和天皇が崩御された。法的には、その瞬間、皇太子明仁親王が天皇となられたことになる。しかし実際は、四時間後の十時半ごろ、宮殿の正殿松の間において、吹上御所から運ばれてきた宝剣と神璽(勾玉)および宮殿の表御座所から運ばれてきた公印(「天皇御璽」と「大日本国璽」)を、皇太子殿下の御前に置く「剣璽等承継の儀」が「国の儀式」(国事行為)として執り行われた。それによって皇位を承け継がれたことが、御自身にも参列者(男性の成年皇族と三権の代表者等)に確認され、それがテレビ等でも伝えられて、一般の国民も認識できたのである。

同様に今回も、法的には平成三十一年(二〇一九)四月三十日の夜中に今上陛下が退位され、直後の五月一日午前零時零分から皇嗣の皇太子殿下が即位=践祚されることになる。しかし実際は、真夜中に儀式を行うわけにいかないから、四月三十日か又は五月一日に、宮殿の正殿松の間へ「剣璽等」が運ばれ、陛下の御前に据えられると、宮内庁長官あたり(往時の「宣命使」に相当)が、「天皇陛下は、皇室典範特例法に基づき、御高齢ゆえ退位(譲位)されることになりました」等と宣告する。ついで直ちに、御前の「剣璽等」が、すぐ隣の皇太子殿下の御前に移し置かれると、殿下みずから「本日ここで日本国憲法と皇室典範特例法により皇位を継承いたします」等と宣言される。これによって、皇位が剣璽等(皇室経済法に定められる「皇位とともに伝わるべき由緒あるもの」の代表)と一緒に受け継がれた事実を、具体的に確認できることになろう。

 

法的観念:崩御の瞬時に当る特別法の施行日限り=皇嗣が天皇

事実認識:A退位(譲位)の儀式→B即位の儀式で皇嗣が即位

 

このうち、前者をA「退位(譲位)の儀式」、後者をB「即位の儀式」と称するならば、両儀式が同一日に同一場所で行われてこそ、法的には空位のない皇位が、現実的にも連続していることを理解できるにちがいない。その上で、五月二日あたり(三日は憲法記念日だから難しい)、正殿松の間でC「即位後朝見の儀」が行われる。

そのCでは、宮内庁長官あたりから「このたび皇室典範特例法により、四月三十日限りで退位された天皇陛下は上皇陛下と称され(それに伴って皇后陛下は上皇后陛下と称される)、また新天皇陛下の後継者として秋篠宮殿下は皇嗣殿下と称されることになりました」等と宣告する。その直後、新天皇陛下(黄櫨染の御袍姿)が、上皇陛下・上皇后陛下に対する感謝と、一般国民に対して、皇位を継承した決意と理想を「おことば」で述べられる。

このようなC「朝見の儀」は、前回、B「剣璽等承継の儀」と同様に、「国の儀式」(国事行為)として行われた。従って、Bの儀式に先立つA「退位の儀式」も、当然「国の儀式」とされるべきであろう。また先例はないが、後者(朝見の儀)の直後に、新天皇陛下と新皇后陛下が、揃って長和殿の壇上に立たれ、参集する一般国民の祝意に応えられるようなことも、新たに行われてもよいのではないかと思われる。

   即位礼と大嘗祭の時期と在り方

叙上のABCは、皇位継承の当初に行われるべき重要な国事行為ながら、いわば内向けの小規模なセレモニーである。そのうち、約二百年ぶりの「譲位」を形で示すA「退位(譲位)の儀式」は、新しく工夫しなければならないが、後のBCは約三十年前の例に拠れば、大筋できるに違いない。

また、それと別に行われる外向けの大規模なD「即位礼」は「国の儀式」として、また伝統的なE「大嘗祭」は「皇室の公的行事」として、両方とも平成の大礼に準拠して実施されるとみられる。ただ、若干検討すべきは、その時期と場所である。

まずD「即位礼」は、前回まで崩御による一年間の諒闇(服喪)明けに本格的な準備をするため、翌年にならざるを得なかった。しかし今回は、A譲位に起因するB即位であるから、Aの実施時期が内定する本年十二月以後、遅くとも来春から準備すれば、C直後の五月か六月(真夏の七月・八月は避けて)ないし九月か十月に行うことができるのではないか。

一方、E「大嘗祭」は、毎年の新嘗祭と似た趣旨の大祀であるから、十一月の中下旬(古来「卯の日」)でなければならない。しかも、それに先立って、神饌用のお米と粟を作るため、悠紀(ゆき)地方と主基(すき)地方の「斎田」が点定される(古来「亀卜」による)。

それが大正・昭和・平成の三代には、諒闇明けの二月上旬に点定されており、早い方が耕作に万全を期すこともできよう。ただ『延喜式』践祚大嘗祭の定月条では、譲位による践祚(受禅)が旧暦七月以前なら、当年に大嘗祭の諸事を行うと定めている。過去、醍醐天皇朝の寛平九年(八九七)七月十四日、斎田点定の例すらある。従って、即位(践祚)が五月一日でも、早めに斎田を点定すれば、十一月中下旬に大嘗祭を斎行しうると判断されたのであろう。

さらに、DとEについて、私は柳田國男翁の見解に拠り、両者の間隔を空けること、また盛大なD即位礼は早めに東京(皇居宮殿)で、厳粛なE大嘗祭は十一月中下旬に京都(仙洞御所跡地)で、と分けることが望ましいと主張してきた。来年早々から官房長官のもとで検討される諸儀式は、古来の伝統を尊重しながら、現代にふさわしい在り方が十分に工夫されることを念じてやまない。

(平成二十九年十二月三日記 HPかんせいPLAZA掲載)

〈付 記〉「立皇嗣礼」も「国の儀式」で

皇位の継承は、天皇から皇嗣へのいわゆるバトンタッチである。それが今回(約一年五ヶ月後)には、今上陛下(八十五歳)が退位され、皇嗣の皇太子殿下(五十九歳)が直ちに即位される〝譲位〟として行われる。

すると、次の皇嗣は誰になるのか。現行の皇室典範では、第八条に「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という」と定められている。しかし。現在の皇太子徳仁親王が新天皇に即かれると、その子か孫として男子の皇子も皇孫もおられない(皇女の愛子内親王がおられても対象外)から、皇嗣の該当者無しということになりかねない。

そこで、今年六月成立の「皇室典範特例法」の第五条に「第二条の規定(事実上の譲位)による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族」は「皇太子の例による。」と定められた。これによって、皇位継承順序一位の秋篠宮殿下(五十三歳)が皇嗣となられ、従来の皇太子と同様の扱いを受けられることになろう。

とはいえ、これは典範本文の原則(皇太子は皇子か皇孫のみ)を残したままの例外である。だから、特例法によって秋篠宮殿下が皇嗣となられても、その地位を確立するため「立皇嗣礼」を実施される必要がある。しかもそれは「国の儀式」として行われるべきだと思われる。

何となれば、現行典範の原則により、今上陛下の践祚(事実上の即位)で直ちに皇太子となられた皇嗣の徳仁親王ですら、即位礼・大嘗祭が済んだ後、平成三年二月二十三日に、宮殿の松の間で「立太子礼」が「国の儀式」として挙行されている。まして生まれながら皇嗣ではない文仁親王が、兄君の即位後も内廷皇族とならずに、秋篠宮家の代表者として留まられながら、法的観念として皇嗣になられても、その正当性が認識されるためには、「立皇嗣礼」を兄君と同様「国の儀式」として行われなければならないと考えられる。

この点は、来春から検討されると伝えられる「退位・即位」「御即位・大嘗祭」等の在り方と併せてとりあげ、皇位継承の将来に万全を期して頂きたい。

なお、今上陛下の御譲位が平成三一年四月三〇日限りとなるのであれば、その四月一〇日(水)、「天皇陛下御在位三〇年に感謝し、皇后陛下との御成婚六〇年を奉祝する」ための行事が、政府でも民間でも実施されることを期待している。

            (平成二十九年十二月六日記 HPかんせいPLAZA掲載)