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復古と革新 -若き天子により明示された国是

平成30年6月10日

復古と革新―若き天子により明示された国是
所 功
「明治」に改元されてから、今年は百五十年目になる。その前後、我が国は激動の真っ只中にあったが、分裂抗争しがちな全国民の心を一つにまとめ、維新の大業実現に最も大きな役割を果たされたのが、若き明治天皇にほかならない。

*「大政奉還」と「王政復古」
明治天皇(御名睦人、幼名祐宮)は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、御父の孝明天(22歳)と御母の権典侍中山慶子(18歳)との間に誕生された。
睦人親王は、5歳まで中山邸(京都御苑内北東部)において育てられ、その後も外祖父中山忠能から国書、伏原宣明から漢籍を学び、ご両親や御歌所の高崎正風から和歌の教えを受けておられる。十歳代から最晩年まで、約半世紀に詠まれた御製は十万首近くにものぼる。
幼少時は女官に囲まれて育ち、元治元(1864)年、いわゆる金門の変で砲弾が内裏に落ちると、爆音に驚いて失神されたという。
しかし、父帝の急逝により慶応3(1867)年1月、数え16歳(満14歳4か月)で践祚されると、状況が一変した。
まず10月14日、15代将軍徳川慶喜は、「従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公儀を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候」との上表文を奉り、「大政奉還」が翌日勅許された。
ついで12月9日、明治天皇の「叡慮」により「王政復古、国威挽回の御基立てさせられ……諸事、神武創業の始めに原づき、縉紳・武弁・堂上・地下の別なく、至当の公議を竭し……尽忠報国の誠をもって奉公いたす」ようにとの大号令が下され、ただちに天皇臨席のもと、総裁と議定(10名)・参与(20名)の会議が小御所で開かれている。少年天子はいやおうなく「大政」の最高責任を担わされることになったのである。

*「五箇条御誓文」とその普及
さらに翌、慶応4(明治元)年の3月14日、紫宸殿に天神地祇を祀り、天皇が拝礼し、玉串を奉奠されると、議定の三条実美が次のような五箇条の「国是」(イ)と「誓文」(ロ)を捧読している。
(イ)
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下心を一にして、盛に経倫を行ふへし。
一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。
一、智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。
(ロ)
我国未曽有の変革を為さんとし、朕躬を以って衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大に斯の国是を定め、万民保全の道を立てんとす。衆亦此の旨趣に基き協力努力せよ。
これに続いて公卿(公家)も諸侯(武家)等も「叡旨を奉戴し、死を誓ひ黽弁勉従事(懸命に努力し)……宸襟(陛下の御心)を安んじ奉らん」という「奉対誓約の書」に一人ずつ署名した。その誓約署名者はなんと767人に及んでおり、まさに「御誓文」なのである。
しかも同日、明治天皇(満16歳半)は全国民に向けて「宸翰」(お手紙)で真意を示された。その宸翰は「幼弱」で「大統」を継いだが、天皇は「億兆の君」だから「天下億兆(全国民)一人もその処を得ざるときは、皆朕が罪(責任)なれば、今日の事朕躬ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立」つことを宣言しておられる。
それゆえ、この「国是」を「御誓文」として承った当時の人々は、その趣旨を素直に理解し、実現に尽力した。のである。伊豆の名主で国学を修めた萩原正平(当時、三嶋神社少宮司、1838~1891)は、明治5(1872)年11月、『御誓文大意』を著している(国立国会図書館デジタルコレクションにWEB公開)。
この中に「御誓文の五箇条(イ)は……御政体の基本、御一新の目的と致すべき」ものであり、「今やこの綸言(ロ)に遵ひ奉りて協心努力」する」ことにより「天下一般保全の御恩沢を蒙るやうに運んでまゐる」と懇切に説いている。
若い天子により掲げられた「五箇条の国是」は、「御一新の盛挙」を実現する原動力となったのである。
(『モラロジー研究所所報』平成30年6月号「近現代の天皇に学ぶ③」より)