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明治の御代に樹立された三本の柱

平成30年6月20日

明治の御代に樹立された三本の柱
              道徳科学研究センター教授(研究主幹) 所 功

 日本史上の近現代は、一世一元の元号を使い「明治・大正・昭和」時代と称することが多い。そのうち「明治時代」は独特の存在感があり、立場を越えて高く評価されている。

*近代的な皇室典範と帝国憲法の制定
「明治時代」は「明治天皇の在位された御代」である。それが高く評価されるのは、その中心(中核)に明治天皇という偉大な君主がおられたからである。
しかも、そのもとで多彩な人物が存分に活躍し、内政・外交・軍事だけでなく経済・社会・教育なども近代的に制度化され、順調に運用される顕著な成果を積み重ねてきた。
 その最たるものが、皇室典範と帝国憲法の制定である。前回とりあげた「五箇条の御誓文」で、第一に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と〝立憲公議政体〟への志向が宣言されていた。それには、まず若い天皇ご自身が君徳を涵養されるため、明治6(1873)年から毎週『国史纂論』や『西国立志編』などを受講され、また重臣や学者から毎月多様な講義を聴き、見識を広め深めておられる。
 ついで明治8年、「今(五事)誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め……漸次に国家立憲の政体を立て」るとの詔書を出され、翌年、その元老院に対して「我が建国の体に基き、広く海外各国の成法を斟酌し、以て国憲を定め」るよう命じられた。
 この元老院で作成された「国憲按」は、後の皇室典範と帝国憲法を一緒にしたようなもので、かなりよくできていた。しかし、未熟な点もあり、岩倉具視の意に叶わず採用されなかった。
 ついで、いわゆる明治十四年の政変直後、参議伊藤博文らの案に基づき、天皇(30歳)は「立憲の政体を建て」るため「明治二十三年を期し」て「国会を開」くこと、「その組織・権限に至っては朕親ら衷を裁し(憲法を欽定し)、時に及で公布する」との勅諭を示しておられる。
 これによって、10年以内に憲法を制定し、国会を開設する方針の実現に向け、政府も民間(自由民権運動家など)も一挙に動き出した。特に伊藤は、翌15年からドイツとオーストリア、16年にイギリスとロシアなどへ赴き、憲法のあり方を学んで帰った。
 そして伊藤は、17年、宮中に「制度取調局」を設けて長官となり、まず国会を貴族院と衆議院の二院制にする前提として「華族」制度を設けた。ついで18年には、内閣の初代総理大臣に就任し、典範と憲法の作成に主力を注いでいる。
 その制定過程で、天皇は侍従藤波言忠からローレンツ・フォン・シュタインの憲法講話((筆録)を30回も聴取された。また、典範と憲法を審議する枢密院会議にすべて出席しておられる。それによって、近代的な立憲君主のあり方を十分に会得されたに違いない。
 さらに、同22年2月11日(紀元節)、典範と憲法の制定を賢所と皇霊殿で奉告され、「朕が現在及び将来に臣民に率先し此の憲章を履行して愆らざらむことを誓」っておられる。事実、天皇は立憲君主として、この典範と憲法を最も誠実に遵守されたのである。

*普遍的な「教育勅語」の渙発と実践
 こうして、明治の皇室と国家を安定させる2本の柱が樹立された。しかも、翌23年10月30日、もう1本の重要な柱が建てられた。通称「教育勅語」にほかならない。
 幕末の開国から迫られた急速な西洋化は、多くの人々を不安に陥れ、価値観の混乱をもたらしていた。天皇は全国各地を巡幸中、その実情を直接ご覧になり、的確な対策を侍講の元田永孚らに求められた。
 それに応えて、典範と憲法の起草にも貢献した法制局長官の井上毅が起草し、その表現などに聖旨を承けた元田の修正意見を容れた。そうして完成のうえ、天皇(39歳)から文部大臣(当時)に下賜されたのが「教育に関する勅語」である。
 この勅語は、「朕惟ふに」で始まり、天皇の教育に関するご意見が簡潔にまとめられている。また「朕、爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ」と結ばれ、天皇のご決意とご希望が述べられている。
 しかも、天皇ご自身が勅語に示された家庭人・社会人・日本人としてのモラルの率先垂範に努められた。そして、それを最高のお手本と仰ぐ人々が、近代日本を立派に築き上げてきたのである。

※「教育勅語」については、拙編『昭和天皇の学ばれた教育勅語』(勉誠出版)、拙著『皇室に学ぶ徳育』(モラロジー研究所)などをご参照願います。