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若いときから各地を巡り、詩歌に秀でた大正天皇

平成30年7月10日

若いときから各地を巡り、詩歌に秀でた大正天皇
道徳科学研究センター教授・研究主幹 所 功
*病身を克服して四皇子に恵まれる
 明治天皇には、15名の皇子・皇女があった。しかし、正室の皇后(一条美子)との間には御子がなく、また側室の女官5との間に生まれた方々も次々と早逝され、成人されたのは5名にすぎない。
 その5名中、4名は権典侍園祥子との間に儲けられた皇女である。やがて昌子内親王が竹田宮恒久王妃、房子内親王が北白川宮成久王妃、允子内親王が朝香宮鳩彦王妃、聡子内親王が東久邇宮稔彦王妃として降嫁され、各々に王・女王を産んでおられる。
 それに対して、皇位継承の資格を法的に認められる皇子は、権典侍柳原愛子との間に生まれられた嘉仁親王(幼称・明宮)のみである。しかも、この皇子は、明治12(1879)年8月31日の降誕当初から「全身発疹……殆ど危険の証候あり……気息奄々」であられた(宮内省侍医・浅田宗伯の拝診記録)。
 そこで半年後、明宮は中山忠能(明治天皇の外祖父)邸に5年間預けられ、明治18(1885)年(満6歳)から青山御所に設けられた御学問所で傅育官の湯本武比古編『読書入門』などを学ばれた。
 しかし、2年後に編入した学習院初等科にはなじめなかった。ただ、お体は箱根や熱海へ転地療養して少し健康になられたので、同28(1895)年(16歳)から、東京帝国大学の本居豊穎(国文・和歌)や三島中洲(漢文・漢詩)及び三田守真(フランス語)などが招かれ、御進講に努めている。
 さらに同31(1898)年、19歳になられてからは、英国に留学した経験もある有栖川宮威仁親王(36歳)が「東宮賓友」(翌年から「東宮輔導」)となり、「御健康を第一に」という方針を徹底して、全国各地を巡啓された。
 そこで次第に健康となられ、同33(1900)年、20歳のときにすこぶる健康な5歳下の九条節子(貞明皇后)と結婚された。そして、翌34(1901)年4月29日、長男・裕仁親王(昭和天皇)、翌35(1902)年に次男・雍仁親王(秩父宮)、同38(1905)年に三男・宣仁親王(高松宮)を次々儲けておられる(四男・祟仁親王〈三笠宮〉は大正4〈1915〉年に誕生)。これは奇跡的な幸運といえよう。

*和歌にも漢詩にもにじむ優しい御心
 この皇太子・嘉仁親王は、明治45年=大正元(1912)年7月30日の父帝(満59歳9か月)の崩御により満32歳で践祚された。そして昭憲皇太后の崩御により一年延期して大正4(1915)年11月、京都で行われた即位礼も、大嘗祭も、神宮・祖陵への親謁(参拝)も、各種の奉祝行事も、滞りなく済ましておられる。
 しかし、それで少し無理をされ、また天皇としての公務も多忙となるにつれて、徐々に健康を損なわれ、同8(1919)年、40歳のときには食事ものどを通らず、散歩すら困難となられた。
 そこで、同10(1921)年、42歳のときに皇太子・裕仁親王(20歳)を摂政に任じられた。しかしながら、病状は好転せず、同15年=昭和元(1926)年12月25日、47歳で崩御されるに至った。
 その長くないご生涯の中、数多くの和歌と漢詩を詠んでおられる。和歌は約500首、漢詩は約1400首が伝わっており、その多くが岡野弘彦氏解題『大正天皇御集 おほみやびうた』と木下彪氏注解『大正天皇御製詩集』(共に明徳出版社)および西川泰彦氏著『天地十分春風吹き満つ――大正天皇御製詩拝読』(錦正社)、石川忠久氏編著『大正天皇漢詩集』(大修館書店)などに収められている。
 その中から、私の好きな各一首を抄出すれば、まず明治37(1904)年、日露戦争の最中に「従軍者の家族を思ひて」詠まれた次の御歌が胸を打つ。
  御軍にわが子をやりて夜もすがら
  ねざめがちにやもの思ふらむ
 また、同42(1909)年、30歳の秋に岐阜県へ行啓されたことを詠まれた左のような七言絶句「養老泉」がある。
  飛流百尺下高岑 古木蒼々雲気深
  聞昔樵夫能養老 至今純孝感人心
  〈試訳〉
  百尺の滝が流れ落ち
  辺りは古木蒼々と雲気が深く漂っている。
  昔、樵が年老いた父親に孝行を尽くしたという話を聞く。
  それは今も人の心に感動を与えている。
 西濃の養老公園には、この御製と共に宸筆「孝百行基」が碑に刻まれている。ちなみに昨年は、元正女帝が当地へ行幸の際(717年)に「醴泉」で若返ったことを喜ばれ、年号を「養老」と改元されてから満1300年になる。