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重患の天皇を補佐された貞明皇后と摂政皇太子

平成30年8月10日

                     道徳科学研究センター教授・研究主幹   所 功
*御夫君を懸命に支えた貞明皇后
 皇太子・嘉仁親王は、明治33(1900)年5月10日、九条道孝の娘節子(15歳)と結婚された。そのころ皇太子(20歳)の病状は好転し、何より節子妃が抜群に健康であったから、幸い翌34(1901)年4月29日に長男の裕仁親王、次いで35(1902)年6月25日に次男の雍仁親王、さらに38(1905)年1月3日に三男の宣仁親王を次々と儲けられた(四男の崇仁親王は大正4〈1915〉年12月2日に誕生)。これほど嫡出皇子に恵まれた皇妃は、極めて珍しい。
 しかし、やがて32歳で皇位を継承され、大正4(1915)年11月に即位礼・大嘗祭などを終えられてから数年後、徐々に病状(言語障害など)が進み、天皇としての役割を果たされ難くなった。その御夫君のために最も尽くされたのが、節子妃=貞明皇后にほかならない。
 例えば、大正9(1920)年の春以降、外国要人の応接は、ほとんど皇后が代行され、その気品と威厳が海外にも知れ渡ったという(『産経新聞』連載の川瀬弘至氏「朝けの空に―貞明皇后の六十六年―」101回、平成29年7月11日付朝刊参照)。
 また、同11(1922)年3月には、はるか九州へ行啓され、かつて神功皇后が御夫君の仲哀天皇のために建てられた香椎宮に参り、御夫君の「大患御平癒」を祈願された。
 次いで、翌12(1923)年9月の関東大震災に際しては、救療現場へ繰り返し出向かれ、被災者らに直接お声をかけておられる。その前後から、ハンセン病患者の救援など、社会事業にいっそう尽力されている。
 さらに、明治初年より昭憲皇太后が率先して取り組んでこられた「養蚕」も、早くから受け継いで精励されて、「神代より伝はり来ぬる蚕がひわざ末も栄ゆく法さだめてむ」(大正11年)と詠まれている。
 なお、皇后が「神ながら」の道を重んじられたのは、筧克彦博士(東京帝国大学法学部教授)による御進講の影響が大きいと見られる。

*摂政として大権を代行した裕仁皇太子
 一方、皇太子・裕仁親王は、大正10(1921)年3月から9月まで欧州を巡啓して見聞を広め深めたうえで、11月25日、重患の父君(42歳)に代わって統治権を総攬すべき「摂政」に就任された(20歳)。それは帝国憲法と皇室典範に基づく措置としてやむを得ないことながら、父帝の崩御まで5年近く、実に辛い思いをされたに違いない。
 その間、同11(1922)年の4月、来朝された英国皇太子エドワード親王の歓待に努められた。また7月には、北海道の各地を巡啓され、11月には「特別大演習」統裁のため香川へ行啓の際、他の四国三県各地も訪れておられる。
 翌12(1923)年の4月には、軍艦金剛で台湾へ行啓し、各地を熱心に見学され、7月には初めて富士山へ登られた。そして9月1日、関東大震災が起きると(皇族3名薨去)、「災害救護帝都復興に関する詔書」を「御名(嘉仁)」に「摂政名(裕仁)」を添えて出し、自ら東京市内と横浜等の罹災地を視察された。しかも、11月10日、「国民精神作興に関する詔書」を発し、次のように呼びかけておられる。
「……今次ノ災禍甚ダ大ニシテ、文化ノ紹復、国力ノ振興ハ、皆国民ノ精神ニ待ツ……宜ク教育ノ淵源ヲ崇ビテ智徳ノ並進ヲ努メ、綱紀を粛正シ風俗ヲ匡励シ、浮華放縦ヲ斥ケテ質実剛健ニ趨キ軽佻詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ帰シ、人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ、公徳ヲ守リテ秩序ヲ保チ、責任ヲ重ジ節制ヲ尚ビ、忠孝義勇ノ美ヲ揚ゲ博愛共存ノ誼ヲ篤クシ、入リテハ恭倹勤敏、業ニ服シ産ヲ治メ、出デテハ一己ノ利害ニ偏セズシテ、力ヲ公益世務ニ竭シ、以テ国家ノ興隆ト民族ノ安栄、社会ノ福祉トヲ図ルベシ……」(『昭和天皇実録 第三』宮内庁編修、東京書籍発行、962〜3頁)
 この中で憂慮されている社会風潮の変化は、かなり深刻な状況にあった。その一端は、同年12月、帝国議会の開院式に行啓途上の摂政宮を、「日本共産党」の難波大助(24歳)が狙撃するという虎ノ門事件に現れている。しかし、それに微動もせず、さまざまな困難に堂々と立ち向かわれた青年皇太子が「摂政」として果たされた役割は、極めて大きいことを今あらためて痛感する。