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皇孫として皇太子として修学された裕仁親王

平成30年9月10日

                      道徳科学研究センター教授・研究主幹  所 功
*明治天皇のご期待に応えて
 昭和天皇については、宮内庁編『昭和天皇実録』が平成26(2014)年に完成し、その全文が東京書籍から出版されつつある(全19冊刊行予定、1冊約800頁前後、一律1890円〈税抜〉)。また、重要な資料集や研究書、さらに一般向けの解説本も続々と刊行されていることは、まことに喜ばしい。
 昭和天皇は明治34(1901)年4月29日、皇孫として誕生された。父君の嘉仁親王(21歳)は以前(「若いときから各地を巡り、詩歌に秀でた大正天皇」 平成30年7月10日更新)記したとおり、幼いころからご病弱であられたが、お元気な節子妃(16歳)との間に健康なご長男を儲けられたのである。それはご両親だけでなく、御祖父の明治天皇(48歳)にとっても大きな喜びであった。
 それゆえ、当帝は皇孫裕仁親王に格別な期待を寄せられ、ご誕生から70日目、信頼する伯爵・川村純義(薩摩〈鹿児島県〉出身、海軍大将、64歳)に養育を託された。川村夫妻は昼も夜も裕仁親王の近くにいて、「物を恐れず、人を尊ぶ性格を幼時より啓発し、また難事に耐える習慣を養うことに努め、気ままわがままな心を決してつけさせない」との方針で、時に優しく、時に厳しく、お育てしたという。
 その川村が他界すると、3歳半ばで皇孫御殿へ移られた。そこで、ご養育主任となった丸尾錦作(美濃〈岐阜県〉出身、東宮侍従、48歳)のもとで女官に選ばれた足立たか(21歳。後に鈴木貫太郎夫人)は、母親のように慈愛を注いでいる。
 やがて明治41(1908)年春、学習院初等科へ入られると、勅旨により院長を拝命した乃木希典(長州〈山口県〉出身、陸軍大将、58歳)が、全力で訓育に努めた。全教職員にも、「一、健康を第一と心得べきこと。二、よろしからざる行状は、矯正に遠慮あるまじきこと。三、成績に斟酌あるまじきこと。四、幼少より勤勉の習慣を付け申すべきこと。五、質素にお育てすること。六、将来軍務に就かれる故、その指導に注意すること」という基本的な方針を示し、一緒に取り組んでいる。
 この「院長閣下」から薫陶を受けられた皇孫殿下は、後に(戦後)「乃木さんから質素倹約とか質実剛健ということの大切さを教えてもらった」と感謝しておられる。しかも、乃木院長は初等科ご卒業後の教育を、学習院の中等科・高等科では不十分ゆえ、特設の「東宮御学問所」で行う必要があると考え、晩年、その構想を盟友に示していた。
*東宮御学問所における帝王教育
 その結果、乃木大将が明治天皇に殉じて自決されたにもかかわらず、大正3(1914)年春、高輪(JR品川駅の近く)の御所内に「東宮御学問所」が開設された。そこで足掛け7年にわたり総裁(校長格)を務めたのが、乃木の盟友であった東郷平八郎(薩摩〈鹿児島県〉出身、海軍大将、66~72歳)である。
 ここでは、5名の同齢ご学友(内仕)が生活を共にし、10数名の教授(御用掛)が〝帝王教育〟に精励した。そのうち、少年皇太子(13~19歳)に大きな影響を与えたのが、「歴史」担当の白鳥庫吉(上総〈千葉県〉出身、49~55歳)と「倫理」担当の杉浦重剛(近江〈滋賀県〉出身、59~65歳)である。
 白鳥は、学習院教授で東京帝国大学(以下、東大)にも出講しながら、御学問所で最も多忙な教務主任を務めた。しかも、専門の「東洋史」(全2冊)だけでなく「国史」(全5冊)も自ら教科書を執筆し、「西洋史」は箕作元八東大教授の本を使っている。それによって歴史への理解を深められた皇太子は、とりわけ何故にフランス革命が起こり、王制が滅びたかを考え、教訓としておられる。
 一方、杉浦は、自ら設立した日本中学校で「倫理」を教えていた経験を生かし、古今東西にわたる実話を活用したユニークな授業に力を入れた。全容は、後に大著『倫理御進講草案』として出版されたが、その冒頭に「一、三種の神器(知・仁・勇の三徳を表す)に則り皇道を体し給うべきこと。一、五条の御誓文を以て将来の標準と為し給うべきこと。一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給うべきこと」という三大方針を掲げている。それが若き皇太子の倫理観・世界観などに絶大な影響をもたらしたことは、多言を要しない。