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和戦の対応に苦悩された昭和天皇

平成30年9月30日

                道徳科学研究センター教授・研究主幹  所 功
*立憲君主制と左右事件の激化
 大正15(1926)年12月25日未明、長らく療養中の天皇(47歳)が葉山の御用邸で崩御された。そこで、皇太子裕仁親王(25歳)は、直ちに践祚され、元号も即日「昭和」と改められた。出典は『書経』にあり「百姓昭明、協和万邦」(全国民が明るく、全世界と仲良く)」との願いを込めた命名と言えよう。
 しかし、出発早々から厳しい現実に直面しておられる。青年天子は、明治憲法に定められる立憲君主としての重責を、摂政から天皇として直接担われることになった。国法上は「統治権を総攬」することであるが、個人的な自由意志を制約されているから、「無答責」(法的責任を負わないこと)が原則である。
 とはいえ、その前提として「万世一系の天皇」が「国ノ元首ニシテ」「陸海軍ヲ統帥ス」と明記されている。そのために、天皇ご自身が全責任を担う覚悟を持たれ、また一般の国民も天皇を絶対視して左右の極論に走り、さらに政府や軍部も天皇の権威を利用しがちになる。
 例えば、すでに大正12(1923)年12月、無政府主義者が帝国議会の開院式へ臨む途上の摂政宮を狙撃しており(失敗)、昭和に入ると、各地で天皇への直訴が何回も起き、昭和7(1932)年の1月には、陸軍観兵式から帰途の天皇に、朝鮮独立党の活動家が爆弾を投げつけた(失敗)。しかも、同年の7月、日本共産党の機関紙『赤旗』にロシアから日本の共産党に指令した「天皇制の転覆」などのテーゼが掲載され、革命地下活動に拍車をかけている。
 一方、陸軍出身の首相田中義一は、昭和3(1928)年の6月、張作霖爆殺事件が起きても天皇に真相を報告せず、11月の即位礼・大嘗祭から8か月後、天皇より不手際を叱責されて辞職した。その叱責を「立憲君主」としては行き過ぎと反省された天皇は、以後「内閣の上奏は自分が反対でも裁可を与える」ほかなくなられた。
 それを見て、過激な軍人などは、昭和6(1931)年9月「満州事変」、また翌7(1932)年の1月「上海事件」、ついで「五・一五事件」、さらに同11(1936)年「二・二六事件」などを次々に起こした。この最後のクーデターは、たまりかねた天皇が「暴徒を鎮圧せよ」と命じられ、3日で終息している。
*「大東亜戦争」への道と終戦
 しかし、その後も政府と軍部は、日本を封じ込めようとする欧米列強に対抗するため、天皇のご内意を無視して、従来の英米協調路線から独伊同盟政策へと転じた。そして昭和16(1941)年の7月、日本軍が南部仏印(ベトナム)に進駐すると、米英は日本への石油全面禁輸に踏み切った。
 そこで、9月6日の御前会議で、日本開戦を覚悟し、外交交渉を続け戦争準備に入る国策が決定された。その際、天皇は遺憾の意を表明するため、「毎日拝誦されている明治天皇の御製〝よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ〟を読み上げ」ておられる(宮内庁編『昭和天皇実録』第8、471頁。以下、『実録』)。
 また、12月8日朝に内閣から上奏された「宣戦布告ノ件」は、枢密院の議(全会一致で可決)を経て裁可されたが、その詔書にも、天皇のご意向で「不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル。……豈朕ガ志ナランヤ」との文言が挿入され、「東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝国ノ光栄ヲ保全センコトヲ期ス」(『実録』第8、578~9頁)との理念が表明されている。
 もちろん、いったん戦闘が始まれば、必勝に向けて前戦の将兵を激励され、戦死した英霊を祀る靖國神社に親拝しておられる。しかし、1年足らずで戦況不利となり、次第に敗退を重ねて、昭和20(1945)年の8月、広島・長崎が原爆の惨禍を蒙るに至った。
 その過程で、早くから戦争終結を願われた天皇は、4月に、かつて侍従長を務めた海軍大将鈴木貫太郎(77歳)を総理大臣に指名された。そして8月9日深夜(実は8月10日午前0時過ぎ)の御前会議では、出席者6名の意見が二分して結論を出せず、首相から裁定を求められたので、天皇(44歳)は、憲法に制約されることなく、悲壮なご覚悟で「終戦の聖断」を下され、「国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断に倣い、決心した旨を仰せられ」(『実録』第9、676頁)、同14日の「終戦詔書」を翌日正午に玉音放送されたのである。