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戦後の復興に挺身された「二十世紀の名君」

平成30年10月20日

            道徳科学研究センター教授・研究主幹 所 功

*君民の紐帯は「相互の信頼と尊敬」
 昭和20(1945)年8月の敗戦(終戦)により、日本は一変したとか「国体の革命」が起きたなどと言う人が少なくない。たしかに、まもなく進駐したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下で、政治も経済も教育なども、根本的な変革を迫られ、それに対処せざるを得なかった。
 とはいえ、何もかも変わったわけではない。とりわけ昭和天皇(44歳)は9月27日、自みずからマッカーサー元帥(65歳)を訪問されたところ、その毅 然たるご言動に感銘を受けた元帥が、「聖断一度下って、日本の軍隊も日本の国民も総すべて整然と之に従った見事な有様は、是即御稜威(天皇の威光)の然らしむる所であり」と称賛している(公式会見記録)。
 また民間では、十二月早々、宮城県の栗原郡で「君民一体、一国一家の日本本来の伝統に基づき、真の道義的平和的新日本建設のために奉仕することを目的として結成」された「みくに奉仕団」の青年男女63名が上京して、「宮殿焼け跡の片付けを行い」、そこへお出ましの陛下から「慰労の御言葉を賜たまわ」っている(宮内庁編『昭和天皇実録』刊本第9、918頁)。
 さらに、翌21(1946)年元日に公表された「新日本建設に関する詔書」は、昭和天皇のご希望で、明治天皇が神々に誓われた「五箇条の御誓文」を冒頭に全文掲げ、「叡旨 公明正大、又何をか加えん。…… 此の御趣旨に則り……新日本を建設すべし」と明示している。しかも、詔書の後半に「朕と爾等国民との間の紐帯(関係)は、終始相互の信頼と敬愛とに依て結ばれ、単なる神話と伝説と(のみ)に依りて生ぜるものに非ず。……朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾う」とある。
 このような君民一体、いわば親子に近い相互信頼こそ、戦後復興の原動力であり、日本古来の底力とも言えよう。
*命懸けの全国巡幸と欧・米ご訪問
 この昭和21年2月、被戦災地へのご巡幸が横浜から始まった。それは警備上かなり危険も予測されたことながら、陛下ご自身「困っている人……又働く人を励まし……一日も早く日本を再興したい。このためには、どんな苦労をしてもかなわない」と仰せられ( 加 藤進宮内次官メモ。髙橋紘氏『昭和天皇 1945-1948』所引)、また木下道雄侍従次長から「天皇は須らく御親ら内地を広く巡幸あらせられて、或は炭坑を、又或は農村を訪ねられ、……親しく談話を交えて……考えを聞かるべきである」(同氏『側近日誌』114頁)との提案もあって、実施されたのである。
 かようなご巡幸は、昭和26(1951)年までに本州と四国・九州の各地を列車などで一巡され、同29(1954)年に初めて飛行機で北海道へ出向かれた。
 ただ、長らく米国の施し 政権下にあった沖縄への行幸は難しく、本土復帰後も諸事情で実現しなかった。それを最晩年まで残念がられた天皇は、「思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを」(昭和62〈1987〉年)との御製を詠よんでおられる。
 「行幸」とは単なる旅行ではない。天皇のお出ましにより幸せがもたらされる。だからこそ、天皇が全国を巡幸されたおかげで、奇跡的な復興も可能となったのであろう。
 それは国内だけに留とどまらない。昭和46(1971)年秋の18日間、天皇(70歳)はヨーロッパ7か国を歴訪された。当時の対日感情は、まだ厳しい国々もあったが、両陛下の誠実なご言動により著しく和やわらいだとみられる。
 また、それから4年後( 同50〈1975〉年)秋の15日間、アメリカ合衆国を訪ねられた。その晩餐会で率直に「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手を差し伸べられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べ」られたところ、満堂の拍手が鳴り止まず、皇后様のスマイルもあって、各地で大歓迎を受けられた。
 この欧・米ご訪問によって、日本への誤解は一掃され、敬愛の念が著しく高まった。
 やがて、昭和64(1989)年1月7日、満87歳8か月余の生涯を閉じられたが、昭和天皇はまさに「二十世紀の類たぐい稀まれな名君」( 阿川弘之氏)と言えよう。