• ミカド文庫について
  • 歴代天皇の略伝
  • 皇室関係の文献目録
  • 皇室関係の用語辞典
  • 上皇陛下の歩み

斎田点定の儀と亀卜の技法          

令和元年7月1日

                        道徳科学研究センター客員研究員 久禮旦雄
皇位継承に伴う「大嘗祭」で神前に供える米・粟を育てる地域を定める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が五月十三日、皇居・神殿の前で行われ、「亀卜(きぼく)」によって栃木県と京都府に決定したことが報道された。
その卜いの方法については、将棋の駒の形(縦約二四センチ、横約十五センチ、厚さ約一ミリ)に加工したアオウミガメの甲羅を使い、火鑚具を用いて火を起こし、ハハカギ(ウワミズザクラの木片)と炭を火炉に入れて燃し、竹箸で甲羅を持ってあぶり、サマシダケで水をかけ、ひび割れからうらなう、と報道されている(毎日新聞五月十三日報道など)。
天皇が即位される際に行われる代始の諸儀としては、剣璽等承継の儀(平成以前は剣璽渡御の儀)、改元、即位礼、大嘗祭などがある。そのうち、大嘗祭は、毎年十一月に行われている「新嘗祭」を「一代一度」のものとして規模を拡大して行うものである。
 新嘗祭・大嘗祭は、いずれも天皇が新穀を召し上がり、天神地祇にも献じて、国土の安寧を祈られる祭祀である。大きな違いは、毎年行われる新嘗祭が二日間の行事で、宮内省官田から収穫した米・粟を用いて常設の神嘉殿において祭祀が行われている(現在は全国の生産者から献じられたものを用いる)のに対し、大嘗祭は四日間の行事で、特別に選ばれた悠紀・主基田から収穫した米・粟を用いて、臨時に設けられた大嘗宮の悠紀殿・主基殿において行われる点である。その悠紀・主基田を設ける国と郡を選ぶために用いられるのが「亀卜」による「国郡卜定」にほかならない。
 大嘗祭について、明確な最初の記述が見えるのは、『日本書紀』天武天皇二年十二月丙戌条である。その際には播磨国・丹波国にそれぞれ悠紀・主基田が設けられた。興味深いのは、同五年九月丙戌条には「新嘗のため、国郡を卜ふ」とあり、尾張国山田郡と丹波国訶沙郡に悠紀・主基田が設けられていることである。つまり、毎年の新嘗祭に際しても国郡卜定が行われていた(大嘗祭と新嘗祭が未分化)のであり、大嘗祭が天皇一代ごととなったのは次の持統天皇の御代と考えられている。その際、国郡卜定も一代一度となったのであろう。その後、奈良時代半ばに施行された養老律令(神祇令、先行する大宝律令もほぼ同文)では大嘗祭は「毎世」(天皇一代ごと)と「毎年」(一年ごと、新嘗祭が相当)の二種類があることが規定されている(田中卓「奈良時代以前における〝新嘗〟と〝大嘗〟について」(『田中卓著作集6 律令制の諸問題』国書刊行会、一九八六)。新嘗祭については、それに先行して皇極天皇朝に「天皇、新嘗に御す。是の日、皇子・大臣、各自新嘗す」とあり(『日本書紀』皇極天皇元年十一月丁卯条)、『常陸国風土記』には現地で「新粟の新嘗」が行われたと記されているので、皇室も含めて、氏族・地域ごとに行われていた収穫儀礼であり、それを前提として、皇室による唯一無二の「大嘗祭」が構築されたと推測される(田中前掲論文)。
亀卜を行うのは、大正大礼以降は、掌典と呼ばれる祭祀に関わる宮内省の職員が行うことが『登極令』に規定され、戦後もこれを基本的に継承している(宮内省が宮内庁となり、掌典の位置づけも変化している)。かつては卜部と呼ばれる人々であり、伊豆・壱岐・対馬から、卜占の技術に長じた者が選ばれてその任についた(神祇令集解・延喜臨時祭式)。
日本列島においては、弥生時代から動物の骨を用いた骨卜が行われていたが神祇官において採用されたのは限定的な地域で行われていた、渡来系の知識に基づくと思われる亀卜であった。限定的な知識であるため、国家による独占的掌握が可能であり、権威化が容易であったためではないかとされている(大江篤「〈媒介者〉としての卜部」水口幹記編『古代東アジアの「祈り」』森話社、二〇一四年)。なお、古代国家による亀卜の採用の時期がいつかは明確ではない。しかし『古語拾遺』には、孝徳天皇朝において、神祇官の前身とされる「祠官」が「卜筮〔夏冬二季御卜之式〕」を行っていたとする記述がある。これはのちに御体御卜と呼ばれる、年に二回、天皇の身体に対する神々の祟りの有無をうらなう儀式を指すものであった。
大嘗祭の成立とともに、国郡卜定が創始された理由については明確ではない。しかし、卜定により選ばれる悠紀・主基田の置かれた国の民の奉仕について、うらないによる選抜であるため、「任意・不特定の民の奉仕」であり「すべての民が、天皇の公的な統治のもとにあることを前提としている」「すべての公民の奉仕を代表し象徴するもの」であり、その奉仕の基盤が孝徳天皇朝以降、従来の国造・伴造支配を解体して構築された「評」(のちの「郡」)であり、その中にいるのは「個別的支配を脱した」「公民」であることが強調されていることは興味深い(高森明勅『天皇と民の大嘗祭』→『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』展々社)。律令国家体制が構築されていく中で、公民制を象徴する祭祀として大嘗祭が構築されたとするならば、その選抜方法として、「限定的な知識」である亀卜が選ばれたとも考えられる。つまり、大嘗祭は伝統的な収穫儀礼を前提としつつも、その成立の時点においては「新しい祭祀」であった。
さて、律令の施行細則の集成として、平安時代半ばに編纂された『延喜式』(延喜神祇式)では大嘗祭と新嘗祭は呼称・内容ともに完全に分離しており、悠紀・主基田の卜定による決定が規定されている。当初は国・郡を選んでいたが、藤原忠平の日記『貞信公記』によると、醍醐天皇朝の寛平年間から、国は固定し(悠紀国は近江国,主基国は丹波国・備中国)、郡のみが卜定されるようになったという。
平安時代末の儀式書『江家次第』では紫宸殿の左近衛陣に神祇官を召し、公卿たちも出席する中、大臣が国ごとに二つの郡の名を書いた紙を神祇官に示し、選んだ結果が大臣に報告され、蔵人を通じて天皇に奏上されるとある。しかし、亀卜そのものの具体的な在り方については明確ではない。平安時代初期に著されたとされる『新撰亀相記』には、海人が捕獲した亀の甲羅を火に曝して乾かし、斧を用いて整形し、磨き上げたものに町を掘り、火を押し付けて卜うという手順が語られており、同様の記述は中世に書かれた『宮主秘事口伝』にも見える(工藤浩「亀卜の起源」同『新撰亀相記の基礎的研究 古事記に依拠した最古の亀卜書』日本エディタースクール出版部、二〇〇五年)二九五頁)。また、近年では江戸時代に著され、伴信友がその著作『正卜考』で引用した『対馬亀卜伝』などの亀卜書や、民俗事例などをもとにした大江篤らによる復元が行われている(東アジア恠異学会編『亀卜―歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす』臨川書店、二〇〇六年)。
ただ、これはあくまで復元の実験例であり、古代、また現在の大嘗祭において行われていたものが同じ手順で行われたかどうかは不明というしかない。前述した『新撰亀相記』や『宮主秘事口伝』、江戸時代に亀卜を行っていた鈴鹿家の史料などとの比較検討が今後必要となるであろう。
そもそも、大嘗祭の亀卜は何度か、存続の危機に直面している。戦国時代における大嘗祭の途絶を経て、江戸時代の東山天皇朝における国郡卜定では方法の詳細が分からなくなっており、再現に苦心したようである。
東山天皇朝に朝廷からの強い幕府への要求により、一度再興された大嘗祭だが、その執行について朝廷内部からの批判もあり、次の中御門天皇の即位に際しては行われなかった。再び行われるのは桜町天皇の即位の際であり、こちらはむしろ幕府からの働きかけによるものであった(藤田覚『江戸時代の天皇』講談社学術文庫)。
元文三年(一七三八)の桜町天皇の大嘗祭は、国学者の荷田在満(春満の甥で養子)が幕府から内命を受け、その儀式を記録している。その記録である『大嘗祭儀式具釈』には「ハハカを燃して、亀甲一枚を挟竹に挟みてこれを灼く」としており(稲荷神社編『荷田全集』第七巻、吉川弘文館)、吉田家の家老職を務め、吉田神社の社家であった鈴鹿家の史料にも「次、波々賀六本ヲ取、火箸ニテ炉火ニ焼。…次、両手ニテ火箸一本ツゝ取之、甲ヲ挟ミ、呪文唱、…次、甲ヲ灼ク、…灼様ハ先甲ノ本ヨリ頭へ、頭ヨリ本へ、次左へ、次右へ、如此何反モ灼之。畢甲ヲ翻シ、裏ヲ表ニナシ、左手ノ火箸ニテ挟ミ、火炉ノフチニモタセテ、右手ニテ佐万師竹一本ヲ取リ、水ヲ灌グ…」(「灼甲作法」『大嘗祭史料 鈴鹿家文書』柏書房)とあり、現代のあり方もこれに近いと思われる。
なお、昭和大礼の際に卜定に関わった川出清彦氏は、「全国を全部にわたって卜するのではなく、両地方の各二県をまず選定し、その二県の中でしかるかしからざるか、可なりや不可なりやを卜するのである」とし、その実際について、「陛下のお手もとには、まず、その候補地として悠紀地方にて三県、主基地方三県が進められる。そうすると陛下は、その内の二県に御加点(御爪の印)される。この御加点二県の名を密封した封が書を卜串という。この卜串が卜者に渡されるのである。…そして亀卜を行なった上、卜合、卜不合は卜串の包みの表面に書して、大礼使長官を通じて御手元に返上する。ゆえに卜者はその内容、つまりどの県が卜合であったか否かは、全然わからないのである。したがって、これは卜者の決定ではない。その決定は神と陛下、否、陛下の御決定に神も加わらせ給うと見るべきものであろう」(川出清彦『祭祀概説』学生社)としている。このかたちが平成・令和において継承されたかは明確ではない。
平成の大嘗祭に際しては、亀甲やウワミズザクラの調達が困難になっていたが、関係者の尽力により、ウミガメは小笠原の水産試験場で自然死した個体が発見され、ウワミズザクラも奈良の林野関係者が吉野の山中で自発的に調査していたものが届けられたという(鎌田純一「斎田点定の儀」(同『即位禮大嘗祭 平成大禮要話』錦正社、二〇〇三年、三木善明「儀礼担当者が語る「平成の大礼」の舞台裏」『文藝春秋special 2017年冬号 いまこそ考える皇室と日本人の運命』)。今回は、ウミガメ保護・研究の拠点がある東京都小笠原村に協力を依頼し、アオウミガメ八頭分の甲羅を確保し、べっ甲の加工業者に依頼して整形したという(読売新聞五月十三日報道など)。
亀卜の方法については、研究や史料により、異なる部分も多いが、このような幾度かの試練に際して、何らかの変容が加わった故と考えれば不思議ではない。
すでに関係史料の調査・研究により、亀卜の実態に迫る学際的研究が進められている(例えば、二〇一五‐二〇一七年度基盤研究(C)「漢字文化圏における骨卜と亀卜に関する総合的研究」代表者:近藤浩之、課題番号:15K02970、二〇一八‐二〇二〇年度基盤研究(C)「日本古代における中国の怪異・卜占をめぐる知識と技術の受容」代表者:大江篤、課題番号:18K00978など)。それとともに、現在行われている亀卜の存続を可能とする、日本の自然・文化環境を整備していく必要があるだろう。

(本稿は所功監修・「京都の御大礼」展実行委員会編『京都の御大礼 即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやびー』思文閣出版に収録された「大嘗祭と亀卜の技法」をもとに、五月二十五日、京都産業大学法学部「日本法制史A」の講義内資料として作成したものを六月三十日、ミカド文庫掲載用に加筆・修正したものである。)