• ミカド文庫について
  • 歴代天皇の略伝
  • 皇室関係の文献目録
  • 皇室関係の用語辞典
  • 今上陛下の歩み

崇神天皇のもとで国内統一に前進

令和3年4月11日

  皇位の継承をめぐる争い

 初代の天皇(大王)として即位された神武天皇の理想は、大和に宮都を開き「八紘」(あめのした)を「宇」(いえ)のように纏めてゆく、いわば〝家族国家〟を建設することであった。しかし、それが直ちに実現されたわけではない。むしろ、かなり長い間、皇位の継承をめぐる争いが繰り返されている。
 例えば、神武天皇の皇子には、日向で吾平津媛との間に生まれた手研耳命と神八井耳命、および大和で媛蹈鞴五十鈴媛との間に生まれた神渟名川耳尊があった。しかし、父帝崩御のとき、手研耳命が神八井耳命と神渟名川耳尊を排除しようとしたので、逆に神渟名川耳尊は神八井耳命と組んで手研耳命を攻撃し、即位して第二代綏靖天皇となり、神八井耳命が神祇祭祀を掌ることになったという。
 古代の大和朝廷(王家)では、中国などのような長子相続よりも、末子相続か兄弟相続の例が多い。例えば、神武天皇も末子の四男であり、3人の兄君は東征の途中で亡くなっている。『漢書』や『後漢書』によれば、弥生時代の「倭」は「百余国」に分かれ、「大乱」もあったという。そのような状況では、兄たちが戦って命を失ったり傷つくと、おのずから弟たち、とりわけ末子が後を継ぐことになり、主導権争いなども起きがちだったのであろう。

  神々を崇め祀って人心を和合

 やがて第10代の崇神天皇は、およそ3世紀前半から中ごろに実在されたと推定してよい。『古事記』の伝える崩御年干支「戊寅」は258年に相当するからである。この崇神天皇が初代の神武天皇と同様に「ハツクニシラススメラミコト」と称えられるのは、当代に大和朝廷の飛躍的な発展を成し遂げられたからであろう。
 しかも、それは武力による征服よりも、まず神威による和合を理想とし実践されたところに、大きな特色が見られる。『日本書紀』によれば、天皇は即位早々「我が皇祖、諸々の天皇等、宸極(皇位)を光臨せしは、あに一身の為ならんや、けだし人神を司牧へて天下を経綸めたまふ所以なり。……今、朕大運(天命)を奉承りて黎元(人民)を愛み育はん。……」との詔によって、親政の理念を表明された。
 ところが、まもなく「国内に疾疫多くして……百姓流離(さすら)ふ」に至ったので、その原因は「朝に善政無くして咎を神祇に取らん」ためだと反省された。
そこで、従来、天照大神と倭大国魂神を「天皇の大殿の内に並び祭」ってきたが、「その神の威を畏りて」これ以後、前者(皇室の祖先神)は豊鍬入姫命(当代の皇女)に託けて宮城(磯城瑞籬宮)近くの笠縫邑(桜井市三輪の桧原神社あたり)で祀らしめるとともに、後者(大和の地主神)は市磯長尾市(倭氏の祖)を祭主とし、および大物主大神(=大己貴神、大神神社祭神)は大田々根子命(大物主と活玉依姫の御子)を祭主として祀らせた。つまり、従来以上に神々の威力を崇敬される天皇は(それゆえ後に「崇神」の諡を奉られた)、皇祖神と地主神および在地の有力な豪族三輪氏らの奉斎神を、各々の関係者に祭祀せしめられたのである。
 そのうえ、天皇は宮廷のある大和だけでなく、全国各地の統一をめざして「八十万の群神を祭る」とともに、「天社・国社、および神地(神田)・神戸(神領)を定」められたところ、「疫病始めて息み国内漸く謐り、五穀すでに成りて百姓饒ふ」に至った。この「天社・国社」は、『古事記』に「天神・地祇の社を定め奉る」とある。
 ここにいう「天神」は、皇室および同系の諸氏族が九州(神話では天上)から奉じてきた神々であり、それに対して「地祇」は、昔から畿内にいる諸氏族が奉じてきた神々にほかならない。したがって、崇神天皇が天神系と地祇系の神々(神社)を明確に区別しながらも、両方の存在を等しく公認されたのは、まさに各々の神々(神社)を奉じ祀る諸氏族と対決することなく、むしろ友好的に和合せしめるためであったとみられる。
 原理主義的な一神教の世界では到底ありえない英邁な施策といえよう。

  各地に皇族将軍を派遣し統合

 けれども、全国各地で勢力を張る諸氏族の中には、大和朝廷に帰順しようとしない者も少なくなかった。そこで、天皇は即位十年目、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道(山陽道)に、丹波道主命を丹波に遣し、「もし教(説得)を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」と命じられた。
 このうち、大彦命は当代の伯父(開化天皇の兄)、武渟川別は大彦命の伯父(孝元天皇の兄)、吉備津彦は武渟川別の異母弟、丹波道主命は当代の甥にあたる。つまり、いずれも〝皇族将軍〟といってよい。
 これらの皇族は各々どんな働きをされたか、詳しいことは分からない。ただ、大彦命は、山背で「謀反」を企んでいた武埴安彦(大彦命の異母弟)を討ち、ついで武渟川別らと共に「戎夷を平げ」たので「異俗多く帰て国内安寧」になったという。
 このような『日本書紀』の伝承は、戦後ほとんど否定されてきた。しかし、幸い近年、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄刀の銘文には、「辛亥年(四七一)」「獲加多支鹵大王(雄略天皇)」に「杖刀人首」として仕えた豪族の「乎獲居臣」から八代前の「上祖」が「意富比危」と刻まれている。そこで1代を30年として八代遡れば、ほぼ3世紀前半に大彦命の実在したことが傍証されたのである。
 しかも、雄略天皇=「倭王武」が中国南朝の宋へ送った昇明2年(478)の上表文に、「昔より祖禰(祖先)躬ら甲冑を環き、山川を跋渉して寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国……」と記されている。これは、この大彦命や後述(次号)の日本武尊などのような皇族たちが、四方八方へ遠征して国内統一に努めた史実を裏付けるものといえよう。その大業を硬軟両様の施策で強力に推し進められたのが、崇神天皇にほかならない。
 さらに拙著『歴代天皇の実像』初版(平成21年3月)直後であるが、奈良県桜井市の纏向遺跡から大型の建物遺構が発掘された。その最大遺構は3世紀前半の宮殿とみられ、崇神天皇の「水垣宮」にあたると推定してよいと思われる。
なお、管見によれば、大和の崇神天皇のころ、北九州の邪馬台国には女王卑弥呼がいたと推測してよいであろう。

(令和3年4月11日)

  補注 崇神天皇の師木水垣宮(磯城瑞籬宮)と纏向遺跡

 平成21年秋、それまで40年以上前より発掘調査が続けられてきた桜井市辻地区の纒向遺跡において、JR巻向駅の近くから大型の建物遺構が検出された。この一帯は早くも平成25年に「国史跡」の指定を受けたが、その理由は次のように説明されている。

3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めまで営まれた大規模な集落で、東西2キロメートル、南北1・5キロメートルという、当該時期では類をみない規模を有する。……大和政権と関わりある遺跡とみなされ、我が国における古代国家形成期の状況を知る上で極めて重要である。

 これによれば、纒向遺跡は「三世紀初頭」から「大和政権と関わりある」勢力が「突如出現」して形成した「当該時期(三世紀代)では類をみない」「大規模な集落」である。しかも、その北側と南側に広い河道の確認される扇状地の微高地には、ほぼ東西軸線上に四棟の建物遺構(西からA・B・C・D)が並んでおり、東端のD棟が格別に大きい。そこで、この遺跡・遺構をどうみるか。発掘担当者をはじめ、多くの考古学者、歴史学者などが様々の見解を示している。ただ、その多くは、『魏志』倭人伝にみえる三世紀前半の邪馬台国(卑弥呼)と結び付けた議論であり、記紀との関係を無視したものが少なくない。
 ここで俄然注目されるのが、記紀の所伝にほかならない。『古事記』中巻には「御真木入日子印恵命、師木水垣宮に坐しまして天下治しめしき」とあり、また『日本書紀』崇神天皇三年九月条には「都を磯城に遷す。これを瑞籬宮(みずがきのみや)と謂ふ」と記されている。すなわち、崇神天皇の王宮(宮都)は、師木=磯城の「水垣宮」=「瑞籬宮」にあったというのである。
 最近纒向で出土した大型の建物遺構D棟を中核とする地域こそ「水垣宮」と呼ばれるに最もふさわしいと考えられる。この推定が正しいならば、ここに宮殿(宮都)を設けられた崇神天皇は、おそらく三世紀初頭から中頃(崩年二五八年)にかけて実在された可能性が極めて高いとみられる(田中卓氏「纏向遺跡の大型建物遺跡は崇神天皇の宮跡といふ論拠」同『続・田中卓著作集3 考古学・上代史料の再検討』国書刊行会)。
 さらに建築史家の黒田龍二氏は、纏向遺跡の建物遺構について、驚くべき新説を提唱された。その結論は、大型の建物Dが「初期ヤマト王権の王宮」であり、しかも「出雲大社の本殿と著しい類似性をもつ」という。そう考えられるのは、『古事記』にみえる出雲の国譲り神話と垂仁天皇段の記事である。まず前者によれば、天照大神の使者から国譲りを迫られた大国主神は、「僕が住処(大社の神殿)をば、天つ神の御子の……天の御巣(大和の王宮)の如くして……治め賜はば、僕は……隠りて侍ひなん」との交換条件を示し、それが受け容れられたので「出雲国の多芸志の小浜に天の御舎(神殿)を造」るに至ったとある。また後者では、皇子の本牟知和気王のことを心配しておられた垂仁天皇の夢に、「出雲の大みあらか神」が現れて、「我が宮を天皇の御舎」(王宮)の如くに修理(つく)りたまはば、御子必ず真事とはむ(治る)」とのお告げがあったので、勅使を遣して「神の宮を造らしめ」られたという。これによれば、古式を伝えてきた出雲大社の本殿構造から遡って、崇神天皇朝までの王宮の殿内を類推することができる。それゆえ、黒田氏は、建物Dこそ、本来「殿内で祭が行われる重要な建物」であって、前掲(イ)にいうⓐとⓑを「天皇の大殿の内に並び祭る」様式であったと考えられたのである。それに対して、西隣の建物Cは、両側に棟持柱のある高床式の建築様式であるから、黒田氏は「伊勢神宮の正殿と極めてよく似ている」といわれる(黒田龍二『纏向から伊勢・出雲へ』学生社)。
 ただし、この推定は、結果的にそうだとしても、三世紀前半当初から、建物Cが天照大神を祀る神殿であったことには必ずしもならないであろう。いわゆる棟持柱をもつ建物は、弥生時代初期(ないしそれ以前)からの遺構が数多く発掘されている。しかし、それらが直ちに神々を祀る神殿であったとは限らない。むしろその多くは、集落の有力者か構成員の重要な宝物を収納した宝庫であろう。宝物というのは、広義の祭具・宝器・武具などのうち、代表的なものが稲穂であったから、「穂倉」=ホコラと称されるようになったと考えられる。それがやがて穀霊の宿る神庫としての「祠」となるにせよ、崇神天皇の王宮とみられるD棟で王宮の近くに建てられていたC棟は、宝庫であったかと思われる。
 これを要するに、三世紀前中期に実在されたと認められる崇神天皇は、纒向に「水垣宮」と称される王宮を建て、その殿内で皇祖の天照大神と在地の倭大国魂神を並び祭っておられたものとみられるのである。
(所功「崇神天皇が天照大神を遷祀された史的意義」(『大美和』131号、平成28年7月1日→所功『未刊論考デジタル集成』第一巻収録予定)を一部抜粋・修正)

(久禮旦雄抄)