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画期的な「大化改新」を主導された天智天皇

令和3年10月1日

                                    所 功
  聖徳太子の改革の効果と変化

 近ごろ世界の実情を見ていると、いくら日本人が平和を願い友好を求めても、国際的な争いに巻き込まれ戦わざるをえない危険な事態がないとは言い切れない。とすれば、お互いに心を合わせて、内外の難問を毅然と克服していく覚悟が必要となろう。
 前回とりあげた推古女帝の御代には、今日のような厳しい東アジア情勢を見据えながら、摂政の聖徳太子が中心となって、内政・外交の改革を積極的に進められた。それは太子の30年近い在職中から徐々に実効を表しはじめたが、女帝の崩御後、再び蘇我氏の台頭により後退を余儀なくされている。
 例えば、太子薨去の2年後(624)、大臣の蘇我馬子が、天皇直轄領の葛城県を下賜してほしい、と推古女帝に要求したところ、女帝から「そんな無理を許せば、自分が不賢と批判されるだけでなく、大臣も不忠と非難されることになろう」と拒否されたので、しぶしぶ引き下がっている(『日本書紀』、以下同)。これは「詔を承けては必ず謹め」という十七条憲法の第三条が励行された一例と言えよう。
 ところが、馬子の跡を継いで大臣となった息男の蝦夷(えみし)は、推古女帝の後継に田村皇子(敏達天皇の孫)を立てた勢いで、舒明天皇朝にわがままな言動をすることが多くなった。例(たと)えば舒明天皇8年(636)、長老の大派王から、「群卿百寮、早く朝(まか)りて晏(おそ)」く退けという憲法の第8条を守って公務に精勤するよう注意されたが、蝦夷は従わなかったという。
 ついで、その5年後(641)、舒明天皇の崩御に伴い、皇后宝皇女が推されて皇極女帝となられ、時に16歳の中大兄皇子が皇太子に立てられた。しかし、大臣の蝦夷は、勝手に天子のごとく「祖廟」を建てて「八佾(やつら)」の舞(勅命で認められる八人八列の群舞)を行い、自分の墓を「大陵」と称し、自宅を「宮門(みかど)」と呼ばせている。しかも、蝦夷より強引な息男の入鹿は、古人大兄皇子を推し立てようとして、人望の篤い山背大兄王(聖徳太子の遺児)を攻め滅ぼすに至った(643)。

  皇太子の立場で画期的な大革新

 そこで、この翌年(644)ころから、補佐役の中大兄皇子(19歳)は、蘇我氏の専横を除き、皇室を中心とする強力な国家をつくろうと、ひそかに動き出された。そのため、推古天皇16年(608)より32年間も隋・唐に留学して帰った南淵請安や僧旻(みん)から、中国の儒学・仏教および政治制度などを学びとっておられる。
 その当時、同様の志を持つ中臣鎌足(30歳)は、飛鳥の法興寺で催された「打鞠(けまり)」の際、さりげなく中大兄皇子に近づいて「誼(よしみ)」を結び、さらに蘇我の一族でも入鹿に批判的な倉山田石川麻呂などを味方に引き入れて、ひそかに入鹿(いるか)打倒の策を練っている。
 そして、645年の6月、宮殿に入鹿を誘い出し、石川麻呂が皇極女帝の御前で上表文を捧読している最中、皇太子と腹心の手で入鹿を誅滅することに成功した。それを機に、女帝は譲位されたが、中大兄皇子(20歳)は皇太子に立てられ、叔父の孝徳天皇のもとで、目覚しい政治改革に取り組まれている。
 すなわち、まずクーデターの翌日、新政府の要人として、新帝外戚の阿倍内麻呂を左大臣、蘇我氏代表の石川麻呂を右大臣、側近の中臣鎌足を内臣、碩学の僧旻と高向玄理を国博士に登用された。ついで五日後、群臣を召し集めて、神前で次のことを誓わしめられている。
天は覆ひ地は載す、帝道唯一なり。しかるに末代澆薄(うす)らぎて君臣序(ついで)を失ふ。……今より以後、君は二つの政無く、臣は朝(宮廷)に弐(ふたごころ)無し。もしこの盟に弐(そむ)かば、天災地妖、鬼誅し人伐たん。
 しかも、この日(6月19日)「大化」という公年号が定められた。前漢(武帝)に始まる年号は、中国王朝の権威を表すものとして、長らく周辺諸国にも同年号の使用が強制されてきた。しかし、この機会に日本では、「広大な徳化」を意味する独自の年号を建て、国政革新の意気を示したのである。さらに、孝徳天皇が「まさに上古の聖王の跡に天下を治むべし」と詔されたところ、右大臣の石川麻呂は「先づ以て神祇を祭ひ鎮め、然る後に政事を議るべし」と奏している。
 それから半年間、迅速に準備を進め、都を飛鳥から難波へ遷し、翌大化2年(646)の正月、賀正の礼に続いて公表されたのが「(大化)改新の詔」にほかならない。
 それは長文にわたるが、要点をあげれば、(1)皇室・豪族の私有する土地・人民をあらためて公地・公民にすること、(2)京師・畿内や国司・郡司および関塞・防人や駅馬・伝馬などの制を定めること、(3)戸籍・計帳や班田収授および田租の法をつくること、(4)全国の調や仕丁・采女などの貢進について定めること、の四条からなる。
 このような全国統合に関する画期的な新制度は、後代の修訂が加わっているとか、ただちに実施された確証が乏しい、などと否定的にみる説が、戦後長らく強かった。しかし、時野谷滋博士の『大化改新』(日本教文社)などによれば、改新詔の大部分は、後の文飾が加えられているにせよ、骨子を当時のものと認めてよい。むしろ「大化以後の国制改革は、この詔を主軸として展開され、やがてその成果は50余年後の大宝律令に集大成された」(同上)と考えられる。

  外交危機に備え近江へ遷都

 このような中大兄皇子の大革新は、聖徳太子以来の改革路線を前進させたものである。その背景として、外交上の危機があり、それに対処するため、国内体制を強化することが急務であった。現に唐の大軍が、大化元年(645)から高句麗へ何度も攻め込んでおり、その勢いはやがて日本へも及びかねない状況にあった。
 そこで、白雉5年(654)に孝徳天皇(59歳)が崩御されても、中大兄皇子は実母の皇極前帝に再び即位を願って斉明天皇とし、三たび皇太子の立場に留まって内政外交の陣頭指揮にあたられた(都は飛鳥)。とくに斉明女帝元年(660)、日本と友好関係の深い百済が、唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされると、その遺臣らが救援を求めてきたので、翌年の正月、女帝も皇太子も先頭に立ち、他の皇族(弟の大海人皇子ら)などを伴って、何と九州の筑紫まで遠征されている。
 ところが、その7月、高齢(68歳)の斉明天皇が筑紫の朝倉宮で急逝された。そこで、中大兄皇子(30歳)は、喪を秘して、称制(即位式を挙げず実質的に大政を行うこと)の形をとり、百済への救援を続けられた(以下、天智天皇と称する)。けれども、翌々年(663)、わが水軍が白村江(錦江河口)の戦いで唐・新羅の水軍に敗退してしまい、彼の軍勢が海を越えて本土へ侵寇する恐れさえ昂じてきた。
 そのために天智天皇は、対馬・壱岐に防人・「烽(とぶひ)」を置き、筑紫・長門・讃岐・大和などに城を築くのみならず、宮都を飛鳥から近江の大津へ遷すなど、万全の防衛体制を固められた(667)。そのうえで、翌年の正月、ようやく正式に即位され、まもなく初めて「近江令」を制定し、それから二年後(670)、ほぼ全国にわたる戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくられた。しかもその翌年、庶子の大友皇子(24歳)を「太政大臣」に任命するなど、中央集権的な政治体制を整えられるに至ったのである。

〔補注〕「大化改新」の存在を裏付ける発掘史料
 『日本書紀』は、中大兄皇子・中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺とそれに伴う蘇我蝦夷の自殺、その結果としての蘇我本宗家の滅亡(乙巳の変)後に、大規模な行政・財政改革が行われたとする。いわゆる「大化改新」である。
 現在、発掘史料はこの時期の行政・財政改革の存在を裏付けつつある。
 その一つが、大阪市中央区の法円坂を中心とした発掘により発見された難波宮跡の遺構である。大阪市立大学教授の山根徳太郎博士が昭和29年(1954)から発掘調査を始め、昭和36年(1961)には後期難波宮の大極殿遺構を確認するに至った。その後、前期難波宮の朝堂院の遺構なども発見され、これは現在、大化改新の後の孝徳天皇朝に建造された難波長柄豊碕宮であることがほぼ確定されている。現在難波宮阯公園として整備されており、発掘史料は隣接する大阪歴史博物館で展示されている。宮の規模は孝徳天皇朝以前の飛鳥の宮に比べてはるかに巨大であり、行政改革による官僚制機構の整備を物語るものと言える。
 また、木簡史料では平成 14年(2002)に飛鳥の石神遺跡で「(表)乙丑年十二月三野国ム下評/(裏)大山五十戸造ム下部知ツ/従人田部児安」と書かれた、いわゆる「大山五十戸木簡」が発見された。それは「乙丑年」(天智天皇4年=665)の段階で、「三野国」(美濃国=岐阜県)に国―評(のちの郡)―五十戸(のちの里)という地方の行政・徴税単位の階層が存在していることを物語るものであった。『日本書紀』の大化改新詔では五十戸を一里とすることが命じられており、この段階での行政・財政改革の結果が天智天皇朝になっても継続していたものと考えられる。(久禮旦雄)

〔参考文献〕
市大樹『飛鳥の木簡―古代史の新たな解明』(中公新書)
吉川真司『シリーズ日本古代史3 飛鳥の都』(岩波新書)
吉村武彦『大化改新を考える』(岩波新書)

【展示解説 前編】特集展示「古代の都 難波京」(大阪歴史博物館)

【展示解説 後編】特集展示「古代の都 難波京」(大阪歴史博物館)