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千年以上も続く「平安楽土」を築かれた桓武大帝

令和4年2月1日

(伝統文化研究室)所 功

「平安宮」を偲ぶ平安神宮の創立

「みやこ」とは、大王(天皇)の御屋(ミヤ=宮殿)がある処(コ=都会)をいう。記紀にみえる大和、飛鳥時代までの「みやこ」は、素朴な宮殿と簡略な都会から成り、ほとんど一代ごとに送り替られていた。

それが古代中国(おもに唐)の大宮殿を中心とする大都会をモデルとして、7世紀末に「藤原京」が造られ、まもなく8世紀前半に「平城京」へ遷された。ついで8世紀末に「長岡京」を経て「平安京」へ遷された。つまり、唐風の宮都も、一箇所で長く留まることにはなっていない。

しかし、4度目の平安京は、明治初年まで千年以上も「みやこ」であり続けた。ただ、本来の宮殿も京域も、平安末から火災などで変貌をとげてしまった。そのような左右京域は復元すべくもないが、平安宮の一部は偲ぶことができる。をれは、明治28年(1895)に創建された「平安神宮」である。

その構想は、岩倉具視が晩年(明治16年)、京都復興対策の一つとして「官幣大社 平安神宮」を京都御苑内に創祀するよう建白している。それが「平安建都千百年紀念」の機会に、京都(東郊の岡崎)で開かれた内国勧業博覧会の、いわばメイン・パビリオンとして、日清戦争の講和直後、平安遷都記念日の10月22日に、創立されたのである。

しかも、このとき、平安建都から幕末維新まで1千余年の各時代を彷彿とさせる時代風俗行列が始められた。それが翌年から、単なる仮装行列ではなく、祭神桓武天皇の神輿(鳳輦)が京都市域を神幸(巡廻)される露払いのような先導行列となり、今なお毎年10月22日、「時代祭」として盛大に行われている(拙著『京都の三大祭』角川ソフィア文庫参照)。

 

予想外の立太子・即位と長岡遷都

 

この平安宮都を築かれた第50代の桓武天皇は、天平9年(737)に誕生された。父は天智天皇の孫にあたる白壁王、母は百済系帰化人の和乙継の娘(のち高野新笠と改称)である。天武天皇系中心の奈良時代には、傍流の数多いる諸王の一人にすぎず、幼少期の具体的な動静は何も伝わっていない。

しかし、『日本後紀』所載の伝記に「徳度高くそばたち、天姿嶷然として、文華を好みたまはず」とあり、また宇多天皇の『寛平御遺誡』に「延暦聖主」(桓武天皇)は雄壮な鷹狩を好まれたというエピソードがみえる。背が高く体格のよい山部王(桓武天皇)は、おそらく外祖母(新笠の母の土師真妹)の住む山背国乙訓郡大枝(京都市西郊)あたりで、自由奔放に育たれたのであろう(村尾次郎博士『桓武天皇』吉川弘文館人物叢書)。

やがて父君の白壁王と同じく、平城の都で律令官人の道を歩み始め、大納言となった翌年の天平神護2年(766)、30歳で大学頭(いわば東大学長)の要職に就かれた。それから4年後の宝亀元年(770)、称徳女帝(53歳)の崩御によって急に長老(62歳)の父君が光仁天皇となられ、それにともなって山部王も四品の山部親王に昇格されている。

この光仁天皇は、正妃が聖武天皇の第一皇女の井上内親王(もと伊勢斎王)だったから、いわゆる天智系と天武系の懸け橋として藤原百川らに擁立されたのであろう。したがって、その皇太子も二人の間に生まれた嫡子の他戸親王が立てられた。けれども、この皇太子は即位を焦って謀反を企てた、と疑われて一年余で廃されてしまい、宝亀4年(773)、代わりに立てられたのが庶子の山部親王(37歳)にほかならない。

そこで、新皇太子は、長らく律令官人として培った豊かな経験を活かし、有能な藤原氏(外戚の良継・百川など)の協力を得ながら、積極的に内政と外交の建て直しに取り組んでおられる。

そして、8年後の宝亀12年(781)が、中国伝来の讖緯説(数理予言説)で「革命」(天命変革)の年とされる辛酉にあたる。そこで、まず正月元日に年号(元号)を「天応」(天命に呼応する)と改元され、ついで4月、老衰の父帝(73歳、同年末に崩御)より皇位を譲られるに至ったのである。

こうして壮年(45歳)で即位された桓武天皇は、同母弟の早良親王を皇太子に定められ、ただちにさまざまな新政策を打ち出された。たとえば、奈良時代に仏教が政治と密着して過度に勢力を持ち、道鏡などの専横までもたらした事態を正すため、延暦2年(783)には、京畿内・七道諸国で、勝手に寺を建てたり田宅地等を寺へ寄進することを禁止された。

ついで翌3年(784)が、讖緯説で「革令」(革命に次ぐ変革)の年とされる甲子であり、しかもその11月1日が19年に1度しかない冬至(特に朔旦冬至という)にあたる。そこで、これを吉兆として、70数年ぶりに奈良より長岡への遷都が決行されている。

この長岡が新都に選ばれたのは、詔に奈良よりも「水陸の便」がよいからだとある。しかも、その周辺は光仁・桓武両帝の擁立に尽力した藤原氏や帰化人(秦氏・百済王氏など)の勢力圏であり、彼らの協力が得られやすかったのであろう。

しかるに、翌4年、延べ30万人以上の役夫らを動員して長岡京を造営していた途中の最高責任者藤原種継(百川の甥)が、弓で射殺された。それのみならず、その首謀者として皇太弟の早良親王が捕えられ、淡路島への配流中に絶食死する、という悲惨な事件が起きた。そのうえ、代わりに立太子した嫡子の安殿親王(12歳)が病気がちとなり、わずかの間に生母の高野新笠も皇后藤原乙牟漏(皇太子の生母)も次々に他界している。さらに延暦11年(792)、2度の集中豪雨で淀川が氾濫して左京一帯に甚大な被害をもたらしたのである。

 

平安造京と蝦夷平定に全力投入

 

このような閉塞状況の打開を促したのは、民部大輔の和気清麻呂にほかならない。彼が思い切って再び新天地へ遷都されるよう奏上したので、天皇は長岡京を放棄をする決断をされ、それより北方にあたる山背盆地を調べられた。そして、当地こそ宮都の好条件(北に山、東に川、南に池、西に道があること)を備えていることが判明すると、ただちに殿宅の建造を進めさせ、早くも翌13年(794)の10月22日、まだ造営中の新都へ遷られたのである。

その直後の詔書に、「この国、山河襟帯、自然に城を作す。……よろしく山背国(平城山の背後の国)を改めて山城国と為すべし。また子来の民(子供のように喜んで集まり来る民衆)、謳歌の輩、異句同辞し、号して平安京といふ」とみえる。また翌14年正月、新宮殿で催された踏歌の節会でも、参会者たちが「新京楽、平安楽土、万年春」と平安新京を讃えている。

しかし、この宮都を完成するまでには、多年の歳月と莫大な出費を要した。その造宮使長官を務めたのは、天皇の信任篤い菅野真道と和気清麻呂である。しかも天皇みずから何度も工事現場を巡検して、具体的な指示までされたという<寛平御遺戒>。

この天皇が取り組まれたもう一つの大仕事は、東北地方で朝廷に服属しない蝦夷の平定である。そのために、坂上田村麻呂を征夷大将軍、百済王俊哲らを副将軍に登用して、約10万の兵士たちを現地へ送られたので、画期的な戦果を上げるに至った。

さらに、律令体制を建て直すため、70歳で崩御されるまで率先して親政に努められた。とりわけ力を尽くされたのは造京と征夷の二大事業にほかならない。正史『日本後紀』の崩日伝記にも「宸極(皇位)に登りてより心を政治に励まれ、内は興作を事とし、外は夷狄を攘ひたまふ。当年の費と雖も、後世の頼りたり」と特筆されている。そのおかげで、京都は千年以上の<平安楽土>となり、また日本全体の統合協和も可能になったといえよう。

 

補注 桓武天皇の事績をめぐる近年の諸研究
桓武天皇の事績については、平成時代の後半に共同研究やシンポジウムが行なわれ、その成果が出版されている。
まず、国立歴史民俗博物館が平成14年(2002)年度から2年間行った公募型共同研究「律令国家転換期の王権と都市」(研究代表者山中章・三重大学)の成果として平成19年(2007)に行われた同館企画展示『長岡京遷都―桓武と激動の時代―』と関連出版物がある(詳細は参考文献)。そこではさまざまな知見が提示されているが、特に長岡京遷都が平安京遷都の前提となる失敗例ではなく、むしろ一連の改革(「山城遷都」)とされていることが注目される。そこでは長岡京が水陸の交通の結節点にあり、摂津職長官の和気清麻呂のもとで難波宮が解体され、長岡に資材が運ばれていることから、政治の中心である平城京と経済の中心であった難波京の役割を一体化しようとするものであったと推測されている。
このほか、皇學館大学研究開発推進センター神道研究所が平成27年(2015)に行なった公開学術シンポジウム「桓武天皇とその時代」の内容が同センター紀要に掲載されている。その内容は主に桓武天皇の政治上の思想・意識についてであり、桓武天皇の事績を新王朝意識の反映とする従来の研究について、曽祖父にあたる、近江令を定められた天智天皇への敬慕の念はあったとしても、前代(奈良時代の歴代天皇)を否定するような意識はなかったとしている。
なお、歴博・皇學館大学ともに掲載論考の多くがインターネット上のリポジトリで公開され、また詳細な関連史料集が作成・掲載されており、大変参考になる。        (久禮旦雄)
参考文献
井上満郎『桓武天皇 当年の費えといえども後世の頼り』(ミネルヴァ書房、平成18年)
西本昌弘『桓武天皇―造都と征夷を宿命づけられた帝王』 (山川出版社、平成25年)
図録『長岡京遷都―桓武と激動の時代―』(平成19年、国立歴史民俗博物館)
https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/071010/index.html
『国立歴史民俗博物館研究報告』第134集「[共同研究] 律令国家転換期の王権と都市 論考編」(平成
19年)
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main
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『国立歴史民俗博物館研究報告』第135集「[共同研究] 律令国家転換期の王権と都市 資料編」(平成
19年)
国立歴史民俗博物館編『桓武と激動の長岡京時代』(平成21年、山川出版社)
「(平成二十七年度皇學館大学研究開発推進センター神道研究所公開学術シンポジウム)桓武天皇とそ
の時代」『皇學館大学研究開発推進センター紀要』3号(平成29年)
https://kogakkan.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_mai
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