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唐風文化にも和風文化にも精通された嵯峨天皇

令和4年3月1日

                                          所 功

  葵祭に賀茂斎王も参向

 毎年5月15日、新緑の京都で葵祭が行われる。葵祭というのは、三葉葵を家紋とした徳川氏の三代将軍家光のころからの通称で、正式には「賀茂祭」というが、祭の当日、上賀茂・下鴨両社の社殿も奉仕の人々も双葉の葵で飾られる。
 この賀茂祭の起源は、欽明天皇期(6世紀中ごろ)と伝えられる。元来は賀茂川・鴨川の流れる山代盆地の奥まった所=隈(カミの語源)一帯に勢力を張っていたカモ氏が、当方の稲作などに雨の恵みをもたらす雷(鳴神)=賀茂別雷神に走馬などを捧げて豊作を祈る祭であったとみられる。
 それがだんだんと盛大になった奈良時代には、山背全域からの参詣で賑う国祭と化し、やがて平安初期(819年)には、勅祭とされたのである。勅祭とは、天皇が神社に勅使を遣わし幣物(お供え)を奉られる格別な祭祀にほかならない。しかも、この賀茂勅祭には、貴族の勅使(近衛使)だけでなく、皇女の斎王(いつきのひめみこ)も華やかな行列を作って下上両社へ参向される。そのため、平安以来祭といえば、この勅使と斎王の風流な行列を指すほどになった。
 ところで、この賀茂斎王が創設されたのは、嵯峨天皇の弘仁元年(810)、兄君の平城上皇との対立克服を賀茂大神に祈願して勝利を得たので、それに感謝して娘の有智子内親王を斎王に定め、紫野の斎院御所へ住まわしめられたことに由来する。葵祭の雅なイメージとは裏腹に、緊迫した政治抗争の中から、伊勢の斎王(斎宮)に倣って新たなヒロインが登場したのである(拙著『京都の三大祭』角川ソフィア文庫参照)。

  積極的な弘仁親政の展開

 話は前後するが、嵯峨天皇は、延暦5年(786)、桓武天皇(50歳)と皇后藤原乙牟漏の間に生まれ、大同元年(806)、同母兄(12歳年上)の平城天皇の皇太弟となり、同4年4月、病気の兄帝から位を譲られて24歳で即位された。しかるに、まもなく平城上皇は太政官の半ばを連れて平城の旧京へ遷り、寵妃の藤原薬子に唆されて朝政に干渉し「二所朝廷」の状況を作られた。
 そこで天皇は上皇側に対抗するため、翌年(810)3月、機密事項を敏速に処理できる蔵人所を整えて、側近の藤原冬嗣と巨勢野足を蔵人頭に任命するとともに、宮廷の警備と京中の治安を維持するため、従来の六衛府だけでなく、左右衛門府の中に検非違使を設けられた。これ以前にも律令に規定のない令外の官は少なくないが、この蔵人所と検非違使は、令制官よりも簡素で実質的な機能を果たす平安時代の代表的な官衙(役所)となったのである。
 天皇は、同年9月、薬子の変を抑止した直後に年号を「弘仁」と改められた。その出典は、例えば『晋書』周嵩伝に「弘仁の功を済し謙々の美を崇む」と見えるから、心広く情深い徳治を理想として掲げられたのであろう(拙著『日本の年号』雄山閣出版参照)。
 その弘仁親政を具体的に見ると、前記のような令外の官(賀茂斎院司もその一つ)を新設するとともに、畿内で口分田を班給したり、出挙(官稲貸付)の息利を5割から3割に改定するなど、行財政改革を積極的に進めておられる。しかも、皇族の扶養出費を減らすため、弘仁6年(815)から皇子・皇女の大半(5分の3)を臣籍に下し「源朝臣」の氏姓を賜っている。
 この「源」という氏の名は、魏の世祖が同族の賀に「卿は朕と源同じ、事に因りて姓を分ち、今源氏と為すべし」といって源姓にした(『魏書』源賀伝)という故事に先蹤を求めたものと見られ、皇族と同源の王氏であることを明示する。これ以降、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上各天皇の皇子・皇女が次々と源氏に降り、また天長2年(825)桓武天皇孫の高棟王が平朝臣を賜ってから平氏も多くなる。源平両氏が、次第に藤原氏に次ぐ勢力を築いたのである。
 なお、皇后の橘嘉智子は、元を辿れば敏達天皇4世孫の葛城王が臣籍に下って橘諸兄となった、その曾孫にあたる。この橘氏も源平両氏に次ぐ貴種であり、後世源平藤橘と並び称されている。
 当代の勅撰事業としては、このような氏姓の由緒を整理した『新撰姓氏録』が奏進され(同6年)、また律令を修正補足する法規を集成した『弘仁格』『弘仁式』も完成しており(同11年)、加えて宮中の儀式行事を纏めた『内裏式』も撰進された(同12年)。これらが平安時代の宮廷政治に果たした役割は極めて大きい。

  漢詩も筆蹟も抜群の文人

 この嵯峨天皇は、さらに漢詩集を勅撰しておられる。その第一は弘仁5年の『凌雲集』、第二は同9年の『文華秀麗集』、第三は譲位後の天長4年(827)に完成した『経国集』である。しかも、各々に天皇の御製が数多く収められ、合計90首にものぼる。
 その多くは、空海が唐から持ち帰って献上した王昌齢・劉希夷などの詩文集から影響を受けたものと見られている。また、それを詠まれた舞台として、在任中は大内裏近くの神泉苑、譲位後は郊外の河陽宮と嵯峨院が多い。しかし、それ以外にも注目すべき詩が少なくない。
 例えば、弘仁元年4月、天皇は皇太弟(のち淳和天皇)らを従えて近江へ行幸され、志賀の梵釈寺で詩賦の会を催した際、唐に30年近く学んで帰った大僧都永忠が「茶を煎じて奉った」という。天皇には「海公(空海)と茶を飲み、山に帰るを送る」という詩もある。また、同14年2月、紫野の斎院へ行幸して花宴を催された際、娘の斎王有智子内親王(17歳)が素晴らしい七言律詩を詠まれたので、天皇(38歳)は感嘆して次の詩を賜っている(『続日本後紀』所載)。
  忝以文章著邦家(忝くも文章を以て邦家に著す)
  莫将栄楽負煙霞(栄楽を将て煙霞を負ふなかれ)
  即今永抱幽貞意(即今、永く抱く幽貞の意)
  無事終須遣歳華(事無く終え須く歳華を遣すべし)
 さらに唐風を好まれた天皇は、弘仁9年(818)、「天下の儀式(拝礼の仕方など)、男女の衣服(礼服・朝服など)皆唐法に依れ。五位已上の位記も改めて漢様に従へ。諸宮殿・院堂の門閣、皆新額を着けよ」と命じられた。
 そこで、延暦の遣唐使であった儒官の菅原清公(道真の祖父)が、大内裏の殿名・門号を唐風に改め、新しく選ばれた12門号のうち、北面の門額は天皇自身、南面の門額は空海、東面の門額は橘逸勢(西面の門額は少し後の小野美材)の筆になるものが掲げられたという。後世、この天皇と空海と逸勢は、唐風の三筆(筆家)と称されている。
 こうして唐風文化を宮廷社会に普及された天皇であるが、唐風一辺倒になられたわけではない。例えば、衣服の制にしても、弘仁11年、「朕、大小の諸神事、及び季冬(12月)諸陵奉幣には則ち帛衣(和風祭服)を用ひ、元正の朝(元日朝賀)を受くるには則ち袞冕十二章(唐風礼服)を用ひ……大小の諸会には則ち黄櫨染衣を用ひん」と明確に区別しておられる。
 また、仏教についても 空海に深く帰依されている。とくに大飢饉のおきた弘仁9年(818)、自ら般若心経を書写して平安回復を祈願された。それが嵯峨離宮に建てられた大覚寺に宝蔵され、60年ごとに開帳されている。1200年後の平成30年(2018)それを拝見することができた。

 嵯峨天皇の弘仁十一年制と天皇の礼服
 嵯峨天皇の、いわゆる唐風化政策の一環として、本文でも言及されている弘仁11年(820)2月2日に出された詔がある。ここでは天皇は自らの衣服として「朕、大小の諸神事、及び季冬諸陵奉幣」に際しては帛衣(白い練絹の衣)を用い、「元正の朝」(元日朝賀)に際しては唐風の礼服である「袞冕十二章」、そして「朔日(毎月一日)受朝・同聴政・受蕃国使・奉幣」と「大小の諸会」には「黄櫨染衣」を用いる、とされ、さらに皇后・皇太子についても同様の規定を定められている。
 嵯峨天皇朝の記録を含む『日本後紀』は、この前後の写本を現存するものでは欠いている。そのため、六国史を抄出している『日本紀略』の同日条に、一部省略されたかたち(「詔曰、云々、‥‥」)で掲載されている記事により知るほかはない。しかし、江戸時代初期の『有職抄』にはその部分を補う内容として「皇帝皇后の衣服の制度是を稽(とど)む。令条に闕してのせず」とあり、その以下の記述にも、『日本後紀』の原文をもとにしたと思われる部分があることから、当初から日本衣服令が欠いていた天皇の装いの規定を補うものという趣旨が冒頭で述べられていた、とする津田大輔氏の説がある。(久禮旦雄)
(参考文献)
大津透『古代の天皇制』(岩波書店)
武田佐知子・津田大輔『礼服 天皇即位儀礼や元旦の儀の花の装い』(大阪大学出版会)
岡本和彦「衣紋道」京都宮廷文化研究所ホームページ コラム 
https://kyoto-kyuteibunka.or.jp/column/1/