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徳川幕府と対峙し続けた気骨の後水尾天皇

令和5年2月1日

                                      所 功

  朝廷を抑制した徳川幕府の法度

 NHKテレビの大河ドラマ「どうする徳川家康」がスタートした。今後どうなるか判らないが、織田信長・豊臣秀吉のあとを承けて天下を統一した功績は、確かに大きい。ただ家康も、慶長8年(1603)、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、同10年それを嗣子秀忠に譲って幕府の世襲職としたからこそ、政権基盤を盤石にすることがでこたのである。
 その上、同18年『公家衆法度』や『勅許紫衣法度』を発し、翌年大坂夏の陣に勝利した半年後(元和元年)、あらためて朝廷・公家・門跡を規制する『禁中并公家諸法度』を公布している。その第一条は、
  天子、御藝能の事、第一御学問なり。
と書き出し、唐太宗の『貞観政要』、宇多天皇の『寛平御遺誡』、順徳天皇の『禁秘抄』を引き、「御習学専要に候ふ事」と結ぶ。一見穏やかな表現であるが、ここに込められた意図は、天皇が政治に関与されないよう、学芸に専念すべきことを強要したものにほかならない。
 また、第四条と第五条で、摂関などの公家の要職の任免も幕府の意向で左右できるものとする。それのみならず、第七条に「武家の官位は、公家当官の外たるべき事」と定め、武家の人々に与えられる律令的な官職名と位階は、公家の官位と別枠で幕府の推薦によるべきものとした。
 しかも、第十六条で、「紫衣の寺……近年猥に勅許の事……甚だ然るべからず」とか、第十七条に「上人号の事……猥に競望の儀……流罪を行はるべき事」とまで記し、高僧の紫衣着用や上人号の使用を天皇が幕府の承認なしに勅許されることを禁じている。

  公武対立の中で異例の即位と譲位

 このように家康は、朝廷(公家)の権限を厳しく抑制したが、一方では、その権威を幕府(武家)の正当化に利用する術も心得ていた。そんな状況のもとで即位し譲位されたのが、第108代の後水尾天皇である。
 天皇の父君後陽成天皇は、天正13年(1585)秀吉を関白に任命し、皇弟の八条宮(のちの桂宮)智仁親王を秀吉の猶子にされたことがあり、慶長3年(1598)その皇弟に譲位しようとされた。しかし、それは家康の反対によって実現せず、同16年(1611)第三皇子の政仁親王が即位して後水尾天皇となられたのである。
 その3年後(同19年)、家康(73歳)は、若い天皇(19歳)に、二代将軍秀忠(36歳)の娘和子(八歳)を入内させることまで朝廷側に認めさせた。これが実現するのは、家康の薨去などにより6年後である。その間に天皇は女官に皇子女を生ませたりして、幕府に抵抗の意志を示された。ただ、入内後の和子(東福門院)とは仲睦まじく、二男五女をもうけておられる。複雑な御心境であったにちがいない。
 この間に、前記の諸法度が出された。そのうえ第十六条・十七条に関しては、12年後の寛永4年(1627)、幕府が京都所司代に対し、従来の紫衣・上人号について再調整を命じ、幕府の諒承なく勅許されたものを取り消すことにした。それに対して、大徳寺の高僧沢庵らが連署の抗弁書を提出したところ、逆に出羽などへ配流され、80枚近い勅許の口宣が強引に破棄されている。
 そこで、かねてから幕府にご不満の天皇は、同3年と同5年に中宮和子の生んだ皇子への譲位を決意された。しかるに、二人の皇子が相次いで亡くなったので、同6年(1629)、天皇(34歳)は、代わりに同腹の第一皇女興子内親王(七歳)への譲位を表明された。それに対して、幕府は三代将軍家光の乳母春日局を上洛させ、天皇と中宮に拝謁を願って和解しようとしている。
 けれども、それは逆効果となり、まもなく天皇は、幕府と相談せずに、突如譲位を決行された。その結果、奈良末期の称徳天皇から860年ぶりの女帝として、明正天皇が即位されることになったのである。

  五十余年の院政、後継四代を教導

 譲位後の後水尾上皇は、内裏東南に造営された仙洞御所において院政をとられた。それは、7歳から14年在位された明正女帝のみならず、11歳から11年在位の後光明天皇、28歳から9年間在位の後西天皇、10歳から24年間在位の霊元天皇の終わり近くまで、一皇女・三皇子の4代51年間にもわたっている。
 その間、例えば寛永9年(1632)、当時流行の「立花」(活花)競技大会を仙洞御所で催すような宮廷文化サロンの中心となり、和歌・連歌・漢詩・儒学などの研修に力を入れられた。また、戦国乱世に衰退したり廃絶した儀式行事を復興しようと努められ、みずから『当時(仮名)年中行事』などを著し、父帝と同じく貴重書の出版にも力を尽しておられる。
 しかも、併せて常に意を用いられたのは、後継の方々を教え導かれることにほかならない。とりわけ注目されるのが、明正女帝の次に立たれた英明な後光明天皇に対して書き与えられた教訓状3通である(京都御所の東山御文庫に伝存。『宸翰英華』所収。以下の引用では仮名の一部を漢字に直す)。
 その一通を見ると、まず「帝位にそなはられ候と……覚へさせおはしまし候はで、御僑と成り候て、人の申し候事、御承引なく成り行き候事にて候まゝ、よくよく御心にかけられ候て、慎まれ候はん事、肝要に候」と、他人の忠告を聴き容れる謙虚さを求め、具体的に「御短慮、又深く慎まるべき事也。……誰しも怒り起り候時は、常の覚悟の心を失ひ、申すまじき言葉をも発し候物にも候故、怒り静まり候時、後悔せざるものはなく候事に候」とか、「いかにも御柔奕にありたき事に候。……怒りは深く成り易く、慈悲は過ぎ候やうには成り難く候故、その分別、肝要に候」と、できるだけ怒りを抑え柔和に努めるよう誡めておられる。
 ついで、天皇のお務めとして「敬神は第一にあそばし候事に候条、努々疎かなるまじく候。……総じて上を敬ひ下を憐み、非道なき志ある者に、神仏を信ぜざる者はなき道理にて候へば……何事も正路を守らるべき事、肝要に候」と、敬神崇仏の大切さを説くとともに、「御藝能の事は……和歌第一に御心にかけられ、御稽古あるべきにや。……御手習、又御油断あるまじき事にや。……琴笛などは、いづれにても御似合ひ候物を御稽古する事候」と、和歌・習字・管絃の稽古に励むこと、逆に篳篥や碁・将棋に力を入れ過ぎれば「御学問の妨げと成る」ことを諭しておられる。
 さらに別の教訓状を見ると、一方で「毎朝ノ御拝、御私ノ御懈怠」「女色ノ誡」などを自戒するとともに、他方で「万端武家ノハカラヒ候時節ニ候ヘバ……万事御心ヲ付ラレ御慎ミ専用ニ候カ」と、和子入内以来、宮中奥深くまで張りめぐらされた幕府の監視への警戒も注意しておられる。
 この後水尾上皇は、慶安4年(1651)髪を剃り法皇となられた。けれども、洛北に修学院離宮が完成すると、再三御幸して文雅を楽しまれ、延宝8年(1680)85歳の天寿を全うされたのである。

【補注】 後水尾天皇の政治・文化のご事績に関する近年の研究
熊倉功夫『後水尾天皇』(『後水尾院』朝日新聞社→改題して同時代ライブラリー、中公文庫)は、安土桃山文化とも元禄文化とも異なる「寛永文化」の存在を指摘し、幕府に反発する朝廷と上層町衆の結合が生み出したものとした林屋辰三郎説(林屋辰三郎「寛永文化論」『中世文化の基調』東大出版会)に対して、むしろ後水尾天皇を中心とした朝廷と幕府が、緊張感を伴いつつ協力して平和な社会を構築し、そこに花開いたのが寛永文化であると論じた。近年では、後水尾天皇の、幕府との緊張を伴う平和構築の努力を、政治史を中心に論じた久保貴子『後水尾天皇 千年の坂も踏み分けて』(ミネルヴァ書房)があり、同氏の『人物叢書 東福門院』(吉川弘文館)とともに、重要な研究成果である。
また、この時期に整備された江戸時代の朝廷の制度については高埜利彦『江戸幕府と朝廷』(山川出版社日本史リブレット)があり、江戸幕府・徳川家の立場からみた江戸時代初期の朝廷政策については山本博文『徳川幕府と天皇』(中央公論新社→中公文庫)が詳しい。
文化における後水尾天皇のご事績については、絵画との積極的な関わりを述べた野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画』(吉川弘文館)がある。さらに、寛永3年(1626)に行われた後水尾天皇の二条城行幸の文化史的意義については、Living History in 京都・二条城協議会編著『京都 二条城と寛永文化』(青幻舎)のほか、泉屋博古館所蔵の『二条城行幸図屏風』を中心に紹介した同館編『二条城行幸図屏風の世界―天皇と将軍 華麗なるパレード』(サビア)、所功監修『京都の御大礼ー即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやび』(思文閣出版)が画像も多く掲載している。
なお、和歌を中心とした古典や儀式復興についての後水尾天皇の努力も含めて総合的に論じたものとしては藤田覚『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』(講談社→講談社学術文庫)がある。(久禮旦雄)