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朝儀文化の復興に尽力された霊元天皇

令和5年3月1日

                                     所 功
  京都御所「東山御文庫」のルーツ

 京都御所の東北隅に「東山御文庫」と称される書庫がある。そこには、皇室伝来の典籍文書・絵図・器具などが200函余りに収められ、すべて勅封の御物(宮内庁侍従職の所管)とされている。
 勅封とは、天皇の勅許がなければ「封」字の紙切を巻いた錠前を開いてはならない、というしきたりである。東大寺の正倉院では、平安時代から勅封が固く守られてきた。そのおかげで、1250年余り前に光明皇后が納められた聖武天皇の御遺愛品や大仏開眼会用具などの天平文化の精華が、ほとんどそのまま残っている。同様に京都御所でも、何度か火災に遭いながら、貴重な文物が数多く今に伝えられているのである。
 皇室ゆかりの御文庫としては、さかのぼれば律令制の宮内省に図書寮があり、平安宮の内裏に「御書所」など、また上皇の後院(仙洞御所)に「秘閣」、さらに仁和寺や蓮華王院などにも「宝蔵」があった。しかし、応仁・文明の乱(1467~77)などで大半が消失した。そこで、近世に入ると、後陽成・後水尾両天皇が収書活動を始められた。それを承けて、後西・霊元両天皇は、公家や有力社寺の所蔵する典籍・文書・絵図などを積極的に書写せしめられた。それが「禁裏御文庫」(明治15年、近衛家から献上された「東山の倉」を御所内に移築し、そこへ収蔵したので「東山御文庫」と称する)のルーツにほかならない。

  後水尾上皇の期待と訓誡「御条目」

 第108代の後水尾上皇は、御譲位後の半世紀余り、一皇女(明正)と三皇子(後光明・後西・霊元)の4代にわたって院政を行われた。そのうち、明正女帝についで立たれた後光明天皇は、儒学(特に朱子学)を究め、和歌にも勝れておられたが、承応3年(1654)22歳で疫病のために急逝された。
 そのため、すでに上皇の弟の高松宮好仁親王の娘明子女王(母は越前藩主松平忠直の娘)に聟入りし高松宮を継いでいた良仁親王(1637~85)が立てられ後西天皇となられた。けれども、それから数年間に江戸で3度も大火が起こり、伊勢神宮と皇居などの炎上、大坂城の落雷、諸国に大洪水・大地震なども相次いだので、人心一新のため、寛文3年(1663)譲位を余儀なくされた。そこで立てられたのが、10歳の識仁親王=霊元天皇(1654~1732)である。
 この第112代霊元天皇は、幼少より俊敏であられた。それゆえ、父、後水尾上皇の期待も大きく、即位直後、新帝を養育する側近の公家に対し、次のような訓誡の「御条目」(『玉滴隠見』所引)を申し渡しておられる(原漢文)。
 一、第一に御行跡軽ろからず、古風を守られ、今様を除き棄てらるべき事。
 一、御心様、敬神、深く恐れ、御短慮なく……万端に非道なき事等、油断なく申しあげらるべき事。
 一、第二に御学文、御心を入れて勤められ候様に、油断なく申しあげらるべく候事。  (以下省略)
 また、この翌年には、上皇が自作の『当時年中行事』を清書し新帝に贈っておられる。その序文に「宮中日々に零落して、建保・建武(後鳥羽上皇・後醍醐天皇)の昔に似るべくもあらず。……御禊・大嘗会その他の諸公事も次第に絶て、今は跡もなきがごとくになれり。再興するに便なし」と記されている。その意図は、やがてこれらの公事(朝儀)を再興してほしい、というメッセージにほかならないと思われる。
 そこで、霊元天皇は、在位中24年間のみならず、譲位後46年間にも、父上皇の御期待に応えるため、さまざまな努力を重ねられた。それを示す記録が東山御文庫などに伝わっている。

  『改元私勘』と『公事部類』の編纂

 その一例は、寛文13年(1673)を「延宝」と改元されたとき、霊元天皇(数え20歳)みずから『改元私勘』を纏めておられる。年号の改元は、本来、天皇の大権であり、御代の始め(多くは践祚の翌年)に実施すべきところ、中世・近世には武家の意向で左右されるようになった。
 この霊元天皇朝でも、践祚から10年目、内裏の一部が炎上したので、幕府(将軍家綱)と「相談」のうえ、ようやく改元できたのである。その際、天皇は儒家の菅原氏より勘申された10数案の文字に関して、各々の過去の用例を調べた「私勘」を作り、「延宝」が最も好い字だと確証されたことになる。
 もう一つは、『公事部類』15冊(他に目録1冊)である。これは、「神宮・八幡・賀茂・春日・諸社・諸寺・御所・親王元服・御書始・御遊・御賀並臣下賀・宣下・拝賀並に着陣・臣下元服・服忌」の各項について、平安末以来の公家日記から該当記事を抄出したものであるが、成立年次はわからない。
 ただ、水戸の徳川光圀が、これに似た朝儀の総合的な部類記の編纂を天和2年(1682)から着手し、まず翌春「立坊・立后部類記」を朝廷に献上した。ついで元禄元年(1688)、霊元上皇より『礼儀類典』という題号を勅賜されている。しかも、その膨大な草稿は、光圀薨去(1700)の翌年、上皇の近臣野宮定基に送付され、さらに享保7年(1722)その修整清書本515巻が上皇に献上されている。おそらく、この類典編纂に関連して、上皇みずから前記のような15項目の部類記を作成されたのであろう。

  皇嗣の「立太子礼」・「大嘗祭」などを再興

 しかも、これらの調査・研究に基づき、長らく中絶していた朝儀が、次々と復興された。例えば、延宝7年(1679)に石清水八幡宮の放生会、天和2年(1682)に賀茂の奏事始、元禄7年(1694)に賀茂葵祭などである。とりわけ重要なのは、天和3年2月に「立太子礼」、ついで貞享4年(1687)に「大嘗祭」を復興されたことである。
 すなわち、皇嗣(皇位継承者)は、本来まず親王宣下を受けた皇子の一人を皇太子として立てることになっていたが、その儀礼が南北朝期から300年余りも途絶えていた。それを、在位20年に及び譲位を決意された霊元天皇(30歳)は、ようやく九歳となった朝仁親王のために執り行われたのである。宸筆の御記には「立坊の事、崇光院以後既に断絶せり。……然るに今度再興せるは欣悦の至」と記され、また御製にも「時しありて絶えたるを継ぐこの春の わが嬉しさぞ身に余りぬる」と詠んでおられる。
 この「立太子礼」から4年後の貞享4年3月、父帝の譲位を受けて践祚された朝仁皇太子=東山天皇が、同年11月、221年ぶりに「大嘗祭」を執り行われた。これが実現できた要因は、上皇の熱意と努力にほかならない。その当時、摂関など有力な公家が幕府の威を恐れて上皇に反対していたので、上皇は山崎闇斎の垂加神道を奉ずる下御霊(しもごりょう)神社に対し、ひそかに「神慮正直の威力を以て、早く彼の邪臣を退け、朝廷復古の儀を守り給ふこと」と祈願しておられる。
 具体的には、譲位前後から武家伝奏・京都所司代を介して、「大嘗祭」こそ「本朝専要の御神事」だから「御再興それ無く候ては神慮測り難し」と本質を説かれた。そしてその実施には、「即位式」の費用(米高約7000石と銀高約68貫)の中から約3分の1を割き充て、幕府に余分の出費を求めないこと、そのため事前の賀茂川行幸を止めて清涼殿前で御禊をすませること、当日の衣服・調度などをも新調せず、事後の節会も3回を1回ですますなど節約に努めることなどを提示して、なんとか実現にこぎつけられた。そのおかげで、約350年後、令和の「大嘗祭」も古例に則って実施できたのである。

【補注】朝幕関係の研究から注目される霊元天皇(上皇・法皇)の御事績
 霊元天皇(上皇・法皇)の御事績については、現在の研究成果についてまとめている藤田覚『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』(講談社→講談社学術文庫)、高埜利彦『江戸幕府と朝廷』(山川出版社)がある。
 この時期の、幕府と朝廷、あるいは朝廷内での天皇・上皇と摂関との関係については、代表的な研究として、久保貴子『近世の朝廷運営』(岩田書院)、山口和夫『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館)、田中暁龍 『近世前期朝幕関係の研究』(吉川弘文館)、石田俊『近世公武の奥向構造』(吉川弘文館)などがある。なお、文化史的な観点からは、東山御文庫以外に、現在国立歴史民俗博物館に所蔵されている「高松宮家伝来禁裏本」について、同データベースが製作され、その成立過程について霊元天皇の関与を指摘する小倉慈司「「高松宮家伝来禁裏本」の形成過程」(『国立歴史民俗博物館研究報告』178号)があり、また和歌に関しては酒井茂幸「近世禁裏仙洞における定数歌・歌会の書写活動について―目録学から読書論へ―」『国文学研究資料館紀要』42)が、霊元法皇の歌書の収集・筆写事業について論じている。また、霊元天皇の譲位と東山天皇の即位を描いた狩野永納筆「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」が平成31年1月に「特集展示 初公開!天皇の即位図」として京都国立博物館で公開された。これらの論文や展示関連のリーフレットはいずれもオンラインで読むことが可能である。
 また、祭祀・儀礼については宍戸忠夫「「毎朝の御拝」の一考察—霊元天皇とその御代官をめぐって」(『神道宗教』190号)及び、同「紅梅の小袖攷—霊元上皇と服装故実」(『神道宗教』184・185合併号)がある。
参考文献
所功『元号の歴史――元号制度の史的研究』雄山閣BOOKS
野村玄「天和・貞享期の綱吉政権と天皇」『史林』93巻6号
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/240149
石田俊「霊元天皇の奥と東福門院」『史林』94巻3号
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/240181
小倉慈司「「高松宮家伝来禁裏本」の形成過程」『国立歴史民俗博物館研究報告』178号
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=256&item_no=1&page_id=13&block_id=41
国立歴史民俗博物館「館蔵高松宮家伝来禁裏本データベース」
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/taka/db_param
酒井茂幸「近世禁裏仙洞における定数歌・歌会の書写活動について―目録学から読書論へ―」
『国文学研究資料館紀要 文学研究篇』42号
https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1869&item_no=1&page_id=13&block_id=21
京都国立博物館「特集展示 初公開!天皇の即位図」(久禮旦雄)