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近代的な立憲君主明治大帝

令和5年6月1日

                                          所 功
  暦も服装も一変した明治

 戦後も「国民の祝日」となっている「文化の日」は、昭和初期に「国家の祝日」として定められた「明治節」、つまり明治天皇の御誕生日を奉祝する佳節にほかならない。これが11月3日となったのは、明治6年(1872)以降、新暦(太陽暦)に直してからであり、それ以前の旧暦(太陰太陽暦)によれば、嘉永5年(1852)の9月22日である。
 それゆえ、明治3年の太政官布告で定められた祝日の「天長節」は、同5年まで9月22日に祝宴が行われている。そこに列席する君臣の服装も、従来の和装が急速に洋装へと切り替えられていった。
 明治という時代は、この一例にも見られるとおり、長らく主に中国流の文明をモデルとしてきた日本が、新たに西洋流の文明を採用して激変を成し遂げた半世紀である。幕末の安政5年(1858)、米・蘭・露・英・仏と調印を余儀なくされた不平等な「修好通商条約」を改正して欧米と対等の外交関係を樹立するには、彼等のスタイルも価値観も大幅に取り入れる必要があったのである。
 しかし、それは際どい冒険であり、一歩間違えば国民を混乱させ、非常な苦難に陥りかねない。ところが、幸い世界も驚くほどの見事な近代国家を形成することに成功した。その最大の要因は、明治天皇のリーダーシップにほかならないと思われる。

  和漢洋の帝王学と近臣の直諫

 明治天皇(御名睦仁、幼称祐宮)は、孝明天皇(22歳)と権典侍中山慶子のもとに誕生し、順調に成人された唯一の皇嗣である。その実家中山忠能邸(京都御所の北隣に邸址現存)で5歳まで育てられた。
 それより10年余、京都御所で祐宮に対してさまざまな皇子教育が行われている。例えば、書道(手習い)を有栖川宮幟仁親王から、漢籍(素読)を伏原宣明から、和歌を御両親から学ばれた。特に和歌は「毎日、御父君から三つ四つの御題を賜り……御詠哥ができれば、まず御母后へささげて御添削をうけさせられ、それを親王さま自ら奉書紙へ清書して御父帝にたてまつり御批評をこわせられた」(御学友裏松良光談)という。のち御歌所の高崎正風などからも手解きを受けられた明治天皇は、生涯に10万首近く(毎日平均5首強)も詠んでおられる。
 やがて慶応3年(1867)正月、数え16歳で践祚された。その直後、外祖父の権中納言中山忠能は、「わが国は、天照大神から歴代天皇がお預りしているのだから、決して自分の功と思われてはなりませぬ」と諭すとともに、順徳天皇の『禁秘御抄』、後醍醐天皇の『建武年中行事』、後水尾天皇の『当時年中行事』などを御進講している。
 さらに、東京へ遷られて間もなく、福羽美静などから国書、秋月種樹などから漢籍、西村茂樹・加藤弘之などから『英国法』『国法汎論』(独ブルンチュリーの政治学概論)なども学んでおられる。また側近として、侍従に剛直な山岡鉄舟など、侍講に純忠の元田永孚らが任じられ、木戸孝允・西郷隆盛たちも折あるごとに遠慮なく直諫したといわれる。
 それらを青年天子は、少年期よりも熱心に聴講された。また30歳代に入られたころ、厳しく忠告した侍従藤波言忠に対して、「よくぞ諫めてくれた」と感謝されるほど、御心の寛い帝王に成長しておられる。

  全国ご巡幸と立憲君主制の確立

 明治天皇は、「王政復古の大号令」により、天下の政治を主宰されることになった。しかも、それは単なる名目ではなく、近代国家形成のトップ・リーダーにふさわしい役割を果たさなければならない。
 そのため、まずみずから積極的に全国各地へ行幸された。特に明治5年(21歳)から同18年(34歳)までの六大巡幸(各2~3か月)は、鹿児島から北海道にまで及んでいる。その機会に、天皇ご自身が各地の実情を御覧になり、全国民も堂々たる青年天子を間近に仰ぎ得た意義は大きい。
 また、すでに「五箇条の御誓文」で示された公議政体を実現するため、近代的な法体系の整備を命じられた。そこで、早くも明治10年(1877)前後に元老院で「国憲按」が何種類も作られた。ついで岩倉具視の建言により、世俗的な国家法典(憲法)と、伝統的な皇室家法(典範)とを分けて定める方針のもと、伊藤博文などが日本古来の法制と西洋諸国の法典を詳しく調べ、周到に両方の草案を仕上げている。
 しかも、その草案を審議する90回近い会合に、天皇はほとんど出席され、立法趣旨と条文内容の理解に努められた。そして、同22年(1889)の2月11日(紀元節)、それを「大日本帝国憲法」「皇室典範」として欽定(天皇みずから定められること)された。この憲法と典範は(律令法と異なり)天皇をも拘束するものであり、皇祖皇宗の神々にその遵守を誓っておられる。ここに日本は、19世紀末の世界で最も近代的な立憲君主国家の一つとなったのである。
 そのうえ、翌23年10月、「教育ニ関スル勅語」を文部大臣に下賜された。これは、十数年前から地方ご巡幸の際に必ず学校を視察され、どこでも洋風に走り古来の伝統や道徳に否定的な傾向が甚だしいことを憂慮して、侍講元田(肥後出身)の後輩井上毅(こわし)らに、教育の大切な眼目を明示せしめられたものにほかならない。この勅語は国民への命令ではなく、その末尾に「朕、爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」と自ら実践することを明言されている。
 それゆえ、例えば翌24年5月、来遊中のロシア皇太子ニコライが大津で巡査に斬りつけられる事件(いわば「一旦緩急」の非常事態)が起きると、天皇(40歳)はただちに東京から京都へお見舞いに馳せ参じられ、下手をすれば拉致される危険も顧みず、神戸港のロシア軍艦内まで見送りに出向いておられる(いわば「義勇公ニ奉」じられた)。しかも、巡査の処分は、大審院長児島惟謙らが刑法に基づき無期徒刑とした合理的な判決を認め、司法権の独立を守らしめられたのである。
 このように明治天皇は、欽定の憲法も教育勅語も率先して守り通された。だからこそ、多くの一般国民は、天皇をお手本と仰ぎながら、よく法を守り道義の実践に努めたのであろう。

  世界から賞賛される偉大なミカド

 この偉大な天皇は、明治45年(1912)7月30日、数え61歳(満59歳)で崩御された。すると、ただちに世界の有力な新聞や雑誌が、大々的に「明治大帝」(The Great Emperor of MEIJI Mutsuhito)の功績を絶賛している(それを集大成したのが望月小太郎編の大著『世界に於ける明治天皇』原書房を参照されたい)。また、明治初年に来日して福井藩校と東京大学で理科教授あたり、天皇に何度も拝謁したたことのある米国のW・グリフィスも、大正4年(1915)「彼は実際……祖先の素朴な長所を失わないように努めた。彼が模範を示したからこそ……人口の多い貧乏な国が、二つの(日清・日露)大戦争を遂行しうるまでになったのである」(『ミカド』岩波文庫)と論評している。このような高い評価は、米国の日本文学研究家のD・キーン氏の好著『明治天皇』(新潮社)などにもみられる。

【補注】多くの史料とそれに基づく明治大帝の業績研究
 明治天皇のご事績については、宮内省臨時帝室編修局の編修による『明治天皇紀』(全13冊)が、それに伴う『明治天皇紀附図』とともに吉川弘文館より刊行されており、また『附図』の解説として明治神宮監修・米田雄介編『明治天皇とその時代 『明治天皇紀附図』を読む』(吉川弘文館)がある。そして、戦前の宮内省の事業するかたちで戦後に宮内庁書陵部が編纂した『昭憲皇太后実録』も吉川弘文館から刊行されている。
 このほか、『明治天皇紀』の編纂に際して行われた調査に基づく『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』(全9冊、ゆまに書房)が側近の談話に基づく貴重な内容であり、ドナルド・キーン『明治天皇を語る』(新潮新書)は本文で言及された伝記『明治天皇』(全2巻、新潮社)とは別に、明治天皇の人柄をこの記録に基づき語っており、また米窪明美『明治天皇の一日』(新潮新書)も、明治天皇の日常をこれに基づき紹介している。
 さらに、明治神宮編『明治神宮叢書』(国書刊行会)のうち、聖徳編(1巻~6巻)・御集編(7・8巻、)・詔勅編(9巻)・徳育編(10巻)・行幸編(11巻)が明治天皇及び昭憲皇太后のご事績に関するものであり、特に4巻は明治天皇崩御に際して外国の新聞の追悼記事を集めた『世界における明治天皇』が収録されている。また明治天皇・昭憲皇太后の御製・御歌については『類纂新輯明治天皇御集』『類纂新輯昭憲皇太后御集』が平成に入り、明治神宮により編纂・出版されている。更に近年では、ドナルド・キーン氏の指導を受けたハロルド・ライト氏の編訳による『敷島の道に架ける橋 英語で伝えたい明治天皇百首』(中央公論新社)がある。
詔勅についても同じく明治神宮のもとで安岡正篤・平泉澄をはじめとした研究者13人による編集が行われた『明治天皇詔勅謹解』(講談社)があり、一般向けに解説した村尾次郎『日本のいのちを貫くものー明治天皇のみことのり』(明治神宮)も作成された。
行幸については、最近の成果として当時の資料と行幸された地の現況をまとめた打越孝明『明治天皇の聖蹟を歩く』(東日本編・西日本編)(KADOKAWA)がある。
また明治天皇の個別の業績に関する資料集として所功編『「五箇条の御誓文」関係資料集成』(原書房)も参考になる。
 これらの史料に基づき、明治天皇の事績についての再評価が進められている。近年では、笠原英彦『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』(中公新書)、伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房)、西川誠『天皇の歴史7 明治天皇の大日本帝国』(講談社→学術文庫)などがあり、その中では明治天皇は幕末以来の元勲たちとともに、近代的国家建設のために尽力した英邁な立憲君主としての評価が定着しつつある。
 明治天皇の時代には、近代的・西欧的な美術・建築がもたらされ、その制度化(帝国博物館・帝室技芸員など)が進められるとともに、天皇・皇室のイメージも形成されていったことが重視されている。それについては塩谷純・増野恵子・恵美千鶴子『天皇の美術史6 近代皇室イメージの創出―明治・大正時代』(吉川弘文館)や図録『名作を伝える-明治天皇と美術』(三の丸尚蔵館)、小松大秀監修『明治150年記念 華ひらく皇室文化 明治宮廷を彩る技と美』(青幻舎)、山﨑鯛介・メアリー・レッドファーン・今泉宜子『天皇のダイニングホール 知られざる明治天皇の宮廷外交』(思文閣出版)などがある。(久禮旦雄)