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貞明皇后と摂政宮の補佐をえられた大正天皇

令和5年7月1日

                                    所 功
  保養のため各地へ行啓し漢詩を多作された嘉仁親王

 明治天皇には15名の皇子・皇女があった。しかし、正室の昭憲皇后(一条美子(はるこ))との間には御子がなく、側室5人との間に生まれた御子も次々と早逝して、幸い成長されたのは5名にすぎない。
 そのうち、4名は権典侍(女官)園祥子との間に生まれた皇女である。明治天皇のご深慮により、昌子内親王は竹田宮恒久王妃、房子内親王は北白川宮成久王妃、允子内親王は朝香宮鳩彦王妃、聡子内親王は東久邇宮稔彦王妃となり、各々に王・女王を産んでいる。
 それに対して皇子は、明治12年(1879)8月31日、権典侍柳原愛子(なるこ)との間に生まれた嘉仁親王(幼称明宮(はるのみや))のみである。ただ、この明宮は、生後まもなく全身に発疹・痙攣を生ずる「脳膜炎」により苦しまれた。さらに、満8歳で昭憲皇后の猶子(実子扱い)とされ、翌年なんとか皇太子に立てられたが、学習院の初等科から中等科にかけて百日咳・腸チフス・肋膜炎・肺結核などを次々に患い休学されがちであった。
 そこで、日清戦争の翌年(1896)ころから、本居豊穎(国学・和歌・歴史・地理)や三島毅(漢詩・漢文)や三田守真(フランス語)などが東宮侍講に任じられて個人教授に力を尽くした。また大山巌(西郷隆盛の従弟)などが東宮伺候に、有栖川宮威仁親王が東宮賓友に選ばれ、「御健康を第一に」との養育方針がとられている。
 その後、明治33年(1900)5月、満20歳で九条節子(さだこ、のち貞明皇后)と結婚され、お揃いで伊勢・橿原・京都の神宮や山陵に参拝されたのをはじめ、九州・信越・北関東・和歌山・山陰・四国・山陽・東北・東海北陸・北海道など、10数年間にほぼ全国へ行啓された(明治40年には韓国まで行啓)。これは、健康の回復と増進にも役立ち、あわせて各地の実情を学ばれ、一般の国民と親しく交わられる好機ともなったのである(原武史氏著『大正天皇』〈朝日選書〉参照)。
 しかも、その間に数多くの漢詩を作っておられる。木下彪氏謹解『大正天皇御製詩集』(明徳出版社)などによれば、侍講の三島に師事されたころから約20年間で1400首近い作品を作られているという。その大部分は、七言絶句か七言古詩であり、歴代天皇の中でも抜群に多い。たとえば、初期(満16歳)の御作「至尊」に、父君(42歳)の御精励ぶりを詠まれている。
  至尊九重内 夙起見朝廷 日曜無休息……/
  万機聴奏上 仁慈憫生霊 余暇賦国雅……
〈試訳〉至尊(明治天皇)は九重(皇居)の内にあって、夙起(朝早く起き)朝廷(まつりごと)を見たまい、日曜も休息されることがない……/万機(天下の政治)につき奏上(臣僚たちからの上奏)を聴き、仁慈(大御心)にて生霊(全国民)を憫み、余暇に国雅(和歌)を賦し(詠み)たまう……
また明治43年(30歳)の御作「養老泉」には、
  飛流百尺下高岑 古木蒼々雲気深/聞昔樵夫能養老 至今純孝感人心
〈試訳〉百尺の滝が流れ落ち、辺りは古木蒼々と雲気が深く漂っている。/昔、樵が年老いた父親に孝行を尽くしたという話を聞くが、それは今も人の心に感動を与えている。
と岐阜県の養老行啓の際に詠んでおられる。
 さらに、大正初年の御作をみると、徳大寺実則前侍従長や乃木希典故学習院長などから、源義家・為朝父子、平重盛、北畠親房、楠正成・正行父子、頼山陽および諸葛孔明や岳飛などまで、内外の名臣を讚えられたものが少なくない。

  皇太子妃=貞明皇后の積極的な内助の功

 第124代の大正天皇は、このように御成婚(20歳)前後から即位礼(36歳)前後まで、各地への行啓で病状を克服され、その間に優れた漢詩もたくさん作っておられる。それが可能になったのは、近臣・賓友らの努力もあろうが、もっとも大きいのは皇太子妃九条節子=貞明皇后の内助の功にほかならない。
 その節子妃は、宮内省掌典長九条道孝(公爵)の娘であるが、5歳まで東宮近郊の豪農大河原家に預けられて元気に成長された。そして、華族女学校に在学中、活発さを見込まれて、病弱な皇太子(5歳上)の妃に選ばれ、明治33年(1900)に満15歳で結婚。その直後から皇太子の世話を女官に任せず自身で行い、各地への巡啓にも一緒に出かけられた。
 しかも、お二人の間に、裕仁親王(のちの昭和天皇)をはじめ雍仁親王(秩父宮)・宣仁親王(高松宮)が誕生された。「皇統に属する男系の男子」のみを皇位継承の有資格者と定めた、『皇室典範』の要件にかなう皇子を次々と授かったのである。さらに明治45年(1912)7月、先帝の崩御により夫君(32歳)が践祚され、ついで昭憲皇太后の崩御によって延期された即位礼・大嘗祭が京都で行われた大正4年(1915)には、第4皇子の崇仁親王(三笠宮)も生んでおられる。
 しかし、その間に元首・大元帥としての堅苦しい公務が著しく多忙となられた大正天皇は、徐々に健康を損われ、同8年には食事も喉を通らず散歩も困難になった。このような夫君を懸命に支え励まされたのが、貞明皇后にほかならない。
 ただし、一見気丈な皇后も、天皇の病状が好転しないのは自分の責任と思い悩まれ、筧(かけい)克彦(1872~1961)東京大学教授から「万事あるがまゝでよろしい」と教えられて救われたという(同氏編『神ながらの道』〈岩波書店〉参照)。
 ちなみに、大正後半期の皇后は、夫君の代わりに各地へ出向かれ、皇太子(裕仁親王)の教育にも同妃(久邇宮良子女王)の選定にも積極的に関与しておられる。それゆえ、昭和天皇にとっても、母后(昭和26年5月崩御)の影響は極めて大きかったとみられる。

  皇太子裕仁親王が摂政宮として大権を代行

 大正天皇の第一皇子裕仁親王(昭和天皇)の生い立ちは、次回に紹介させていただくが、大正10年(1911)春、東宮御学問所を卒業直後から6か月、船でヨーロッパ(イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・イタリア)を視察してこられた。当時父君の病状が深刻となり、皇太子の長期外遊に母后などの反対もあったが、この訪欧体験は重要な意味を持っている。
 そして帰国後まもない11月25日、『皇室典範』と『摂政令』に基づき、「朕久シキニ亙ル疾患ニ由リ大政ヲ親(みずか)ラスルコト能ハザルヲ以テ、皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ、皇太子裕仁親王ヲ摂政ニ任ズ」との詔書により、皇太子(20歳)が父君(41歳)の摂政として大権を代行されることになった。これは両者にとって実に辛く悲しい事態であったに違いない。
 摂政宮裕仁親王は、父帝に倣って、翌大正11年から5年間に、北海道・四国・北陸・東北・山陽など、ほぼ全道府県(当時は日本領の台湾・樺太も)を精力的に巡啓しておられる。その歴訪先では、何千何万の一般国民(特に青少年)が「日の丸」の小旗を振り「君が代」を斉唱し「万歳」を三唱して奉迎し、まさしく君民一体の感激にひたっている。
 また、大正12年9月、関東大震災が起きると、直ちに罹災地を訪ねて激励され、「国民精神作興詔書」を出し、「浮華放縦ヲ斥ケテ質実剛健ニ趨キ……博愛共存ノ誼ヲ篤ク」するよう呼びかけておられる。その秋に予定されていた皇太子と久邇宮良子女王との御婚儀が翌13年正月まで延期され簡素に行われたのも、詔書の率先垂範といえよう。
 その間に、大正天皇の御病状は一層悪化し、大正15年(1926)12月25日未明、生母柳原愛子や摂政宮・同妃などの見守る中、満47歳の生涯を終えられた。貞明皇太后は、青山の御所内に入江為守の描いた夫君の御画像を「お御影(みえい)」として安置し、終生毎朝夕、心をこめて礼拝されたという。

【補注】『実録』の研究と漢詩・和歌の分析で明らかになる大正天皇・貞明皇太后のご事績

大正天皇については、平成時代の半ばから、原武史『大正天皇』(朝日選書→朝日文庫)、古川隆久『大正天皇』(人物叢書、吉川弘文館)、F・R・ディキンソン『大正天皇 一躍五大洲を雄飛す』(日本評伝選、ミネルヴァ書房)といった伝記が相次いで刊行された。
それとほぼ同時期の平成14年(2002)から数度に分けて、昭和13年(1938)に完成していた宮内省図書寮編修・宮内公文書館所蔵『大正天皇実録』(全85冊)が公開され、その後、一部を修訂した『大正天皇実録 補訂版』(全6巻)が平成28年(2016)から令和3年(2021)にかけてゆまに書房より刊行されている。
また、大正天皇の御製について、漢詩は宮内省図書寮編『大正天皇御製詩集』(上下、宮内省図書寮→国立国会図書館デジタルコレクションで公開)のほか、木下彪注解『大正天皇 御製詩集』(明徳出版社)、石川忠久編『大正天皇漢詩集』(大修館書店)、同『漢詩人大正天皇 その風雅の心』(大修館書店)、西川泰彦『天地十分春風吹き満つ 大正天皇御製詩拝読』(錦正社)、古田島洋介『大正天皇御製詩の基礎的研究』(明徳出版社)がある。和歌については宮内省図書寮編『大正天皇御製歌集』(上下、宮内省図書寮→国立国会図書館デジタルコレクションで公開)のほか、岡野弘彦解題『大正天皇御集 おほみやびうた』(明徳出版社)がある。
なお、大正天皇の即位に伴う大礼(即位礼・大嘗祭)については、ちょうど100年にあたる平成27年(2015)に刊行された『藝林』第64巻第2号に所功「大正(京都)大礼の歴史的意義」とともに、関連史料・文献目録が掲載されている。大正大礼に関係する資料は、その3年後の平成30年に開催された展覧会の図録『京都の御大礼─即位礼と宮廷文化のみやび─』(思文閣出版)で見ることができる。
貞明皇太后については、伝記として小田部雄次 『昭憲皇太后・貞明皇后』 (日本評伝選・ミネルヴァ書房)、工藤美代子 『国母の気品 貞明皇后の生涯』 (清流出版)、川瀬弘至 『孤高の国母 貞明皇后-知られざる「昭和天皇の母」』 (産経新聞出版→産経NF文庫)があり、またその御製についての註解である西川泰彦 『貞明皇后 その御歌と御詩の世界 「貞明皇后御集」拝読』(錦正社)がある。なお戦後、宮内庁書陵部が編修した『貞明皇后実録』は宮内公文書館で公開されているが、未刊である。
このほか、大正天皇・貞明皇太后について、関係者の回想・書簡をもとにした三笠宮崇仁・三笠宮百合子述、工藤美代子編著 『母宮貞明皇后とその時代-三笠宮両殿下が語る思い出』(中央公論新社→中公文庫)、榊原喜佐子 『大宮様と妃殿下のお手紙 古きよき貞明皇后の時代』 (草思社、著者は徳川慶喜の孫、高松宮妃の妹にあたる)のほか、坊城俊良『宮中五十年』 (講談社学術文庫)、山川三千子『女官 明治宮中出仕の記』(講談社学術文庫)、山口幸洋・河西秀哉監修『大正女官、宮中語り』(創元社)など、明治末年から昭和初期にかけて宮中に出仕していた方々の回想録が近年相次いて再刊されている。
くわえて、大正天皇の大喪儀、貞明皇太后の行啓など、映像資料が残されるようになったのもこの時期の特徴であると言えよう。(久禮旦雄)

宮内省図書寮編『大正天皇御製詩集』(宮内庁図書寮→国立国会図書館デジタルコレクション公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/1140997/1/1
宮内省図書寮編『大正天皇御製歌集』(宮内省図書寮→国立国会図書館デジタルコレクション公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/1140995/1/1
堀口修「 「貞明皇后実録」の編修について」『明治聖徳記念学会紀要』51号
http://meijiseitoku.org/pdf/f51-14.pdf
NHKアーカイブス「大正天皇崩御」
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009060005_00000
「貞明皇后と24歳の昭和天皇の映像発見 皇学館大学で撮影」(毎日新聞)

「1923年 関東大震災の映像を解説 貞明皇后の慰問活動 九条武子氏は慈善活動に挺身」(テレビ朝日) https://www.youtube.com/watch?v=bMjtVkD1RIc