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「二十世紀の名君」と称される昭和天皇の帝王学

令和5年8月1日

                                        所  功
  立川の「記念講演」と「記念館」

 昭和64年(1989)1月7日に昭和天皇が満87歳8ヶ月余で崩御されてから、はや34年近い。この天皇に対する研究は、重要な史料が多く発見公刊されて、著しく進展しつつある。
 それに伴って一般国民の理解と評価もご在位中よりも高まっているように思われる。平成3年(1991)設立の昭和天皇記念財団で隔月発行している機関紙『昭和』には、天皇ゆかりの貴重な情報が毎号満載されている。
 また、平成17年(2005)11月、東京都立川市の国営「昭和記念公園」の一角に、立派な「昭和天皇記念館」がオープンした。この記念館には、常設展A「昭和天皇87年のご生涯」と、常設展B「昭和天皇生物学ご研究」、および特別展示(開館記念展は「昭和天皇とあけぼのすぎ」)の三部構成で、素晴らしい品々が展示されている。(同館ホームページ参照)
 その「御幼少時」に使われた教科書などは、御学友の永積(旧姓大迫)寅彦氏(元掌典長)が長らく大事にしておられたもので、それが昭和聖徳記念財団へ一括寄贈されている。
 ちなみに、永積氏の『昭和天皇と私―八十年間お側に仕えて』(学習研究社、平成4年刊)は、友人の高橋紘(ひろし)氏と私が十数回インタビューで聴取した内容を、御本人が幼少期から数十年間つけてこれらた日記などで加筆してくださった確実な記録である。数十葉の貴重な写真ともども、ぜひ心ある方々にご覧いただきたい。

  川村伯爵と乃木院長の御訓育

 昭和天皇の多大な御事績は、すでに何種類もすぐれた評伝が出ているので、ここにはいちいち取り上げない。むしろ、阿川弘之氏が「類い稀な二十世紀の名君」と評するほどの御聖徳は、どのようにして形成されたのか、その天性の御資質を開花させた、いわゆる帝王学の一端を紹介しよう。
 明治34年(1901)4月29日に皇長孫として誕生された親王は、祖父の明治天皇から称号を「迪宮(みちのみや)」、御名を「裕仁(ひろひと)」と命名された。出典は『易経』や『書経』にあり、「広く大きな心で国を治め、人類の幸福に尽くす」ことを念じられたものという。
 その御誕生から七十日目、迪宮殿下は明治天皇の信任篤い川村純義(すみよし)伯爵(薩摩出身軍人、当時枢密顧問官)の麻布邸に三年半近く預けられた。そこで、川村は「健康な御体に育て、天性を曲げぬこと。ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養ふこと。困難に耐へ、我侭(わがまま)を言はぬ習慣をつけること」を御養育の方針とし、家族の協力を得て、躾の徹底に意を注いでいる。
 ついで、川村の逝去(67歳)により東宮御所の皇孫御殿へ戻られた迪宮殿下には、東宮侍従の丸尾錦作(きんさく)と東京女子師範付属幼稚園の保母だった足立たか(のち鈴木貫太郎夫人)などが御養育掛となった。のちに昭和天皇みずから「たかとは本当に私の母親と同じように親しくした」と語っておられる。事実、たかは献身的にお世話をして、幼児期の迪宮殿下に大きな影響を与えたとみられる。
 さらに、明治41年4月から学習院初等科へ進まれた。当時の院長は、明治天皇から指名された乃木希典(まれすけ)大将である。乃木の御訓育方針も「皇孫と雖(いえど)も良くない御行状があれば遠慮なく矯正し、なるべく質素で勤勉な習慣をつけること」であった。
 たとえば、ご通学の際は「なるべくおひろい(徒歩)で」と勧め、また真冬でも「火鉢にあたるより運動場を駆け足されたら暖かくなる」と注意し、さらに「ツギの当たったものを着るのはちっとも恥じゃない」と申し上げた。後に「乃木院長から、ぜいたくはいけない、質実剛健というか質素にしなければならないことを教えられた」と語っておられる。

  東宮御学問所七年間の御修学

 この乃木院長は、初等科ご卒業後の修学所として、当時の中学(五年)と高校(三年)を一貫した七年制の東宮御学問所を特設するよう建言していた。しかし、明治天皇の崩御に殉じて自決した(その直前、迪宮殿下に山鹿素行の『中朝事実』を献上している)ため、その構想は盟友東郷平八郎元帥を総裁として、大正3年(1914)4月から高輪(JR品川駅の近く)の東宮御所の一角に開設されている。
 その御学問所では、ほとんど東京大学か学習院の教授を御用掛に任用した。教務主任の白鳥庫吉博士も、東大兼学習院教授で、みずから国史と東洋史と西洋史を担当し、『国史』と『東洋史』の教科書を新たに書き上げている(その『国史』を『日本歴史』と改題し、拙文の解説を加えて、勉誠出版より複製出版した)。
 しかるに、一人だけユニークな教育者が「倫理」の御用掛として抜擢された。近江(膳所)出身で、東大の理科を出てから英国に留学し、帰国後は教育者の道を歩み、有志とともに創立した東京英学校=日本中学校の校長を長らく勤めていた杉浦重剛(しげたけ、1855~1924)翁である。
 彼が数え60歳から7年間(最後の1年間は東宮妃問題の解決に奔走し事実上休講)に御進講した「倫理」の草案は、すでに戦前(昭和10年)から出版されている。これは、まさに帝王学の神髄といってよいであろう。その御進講に当たって、立てられた三大方針は、次のとおりである(括弧内は私注)。
 一、三種の神器(知・仁・勇の三徳を表わす)に則り、皇道を体し給ふべきこと。
 一、五箇条の御誓文(御一新の大方針)を以て将来の標準を為し給ふべきこと。
 一、教育勅語(道徳の大本)の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと。
 これに基づいて、毎週2回「倫理」の御進講が行われた。それだけでなく、初年度の大正3年後半には「教育勅語」も講じられている。その御進講草案全文に私が若干の語注と解題を加えさせて頂いた『昭和天皇の教科書 教育勅語』(新書判、勉誠出版)をみると、歴史上の人物のエピソードや詩歌・名言などを縦横に引用して判りやすく説かれている。少年皇太子(当時13歳)も十分得心されたにちがいない。

  摂政宮期から即位以後も常に御勉学

 やがて大正10年の春、東宮御学問所を立派に修了された皇太子裕仁親王(20歳)は、半年近く欧州の先進5か国(第一次大戦に敗れたドイツ以外)を歴訪された(往復ともに船旅)。その際、特に英国のジョージ五世(1865~1936)から受けた教訓の影響は大きい。後に(同国王の)「立憲君主としてのふるまいを、終生の私の考えの根本とすること」になったと語っておられる。
 そして帰国早々(11月)、病状の進行した大正天皇に代わり「摂政」として内政外交を総攬(そうらん)されることになった。もちろん、それ以後も御勉学は不断に続けられ、特に御学問所で「法制」と「経済」を御進講した清水澄(とおる)博士(1868~1947)は、摂政宮期だけでなく、昭和に入ってからも宮内省御用掛として『帝国憲法』『皇室典範』「皇室令制」などの御進講を続けている(『法制・帝国憲法』は原書房から出版)。
 この清水博士は、昭和21年(1946)、最後の枢密院議長として『日本国憲法』案の審査に立ち合った。しかし『帝国憲法』を守り切れなかった責任を痛感し、翌22年9月、熱海で入水自決している。その遺書に「幽界ヨリ我国体ヲ護持シ、今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス」とある。昭和天皇が退位せず御在位を全うされたのは、この遺書によるところが少なくないと思われる。

【補注】現在も続く昭和天皇関係の新史料発見と伝記研究
昭和天皇の御事績については、宮内庁書陵部編修課により、平成2年(1990)から約24年かけて編纂が行われ、その後、平成27年(2015)から4年かけて刊行された『昭和天皇実録』全19巻(東京書籍)がもっとも重要である。
また研究者・ジャーナリストによる伝記としては、代表的なものとして伊藤之雄『昭和天皇伝』(文藝春秋社→文春文庫)、古川隆久『昭和天皇—「理性の君主」の孤独』(中公新書)、原武史『昭和天皇』(岩波新書)、加藤陽子『天皇の歴史08 昭和天皇と戦争の世紀』(講談社→講談社学術文庫)、高橋紘『人間 昭和天皇』上下(講談社)、保阪正康『昭和天皇』上下(朝日選書)がある。
また関連する史料・回想録などについては、昭和36年(1961)に藤田尚徳『侍従長の回想』(講談社→中公文庫・講談社学術文庫)や昭和32年(1957)の『侍従とパイプ』(毎日新聞社→中公文庫)にはじまる入江相政の一連の随筆・回想録があったが、昭和64年(1989)の昭和天皇が崩御された後、『入江相政日記』全6巻(朝日新聞出版→朝日文庫)、木下道雄『側近日誌』(文藝春秋社)が相次いで刊行され、その後、平成時代を通じて貴重な資料・証言・発言集などが発見・刊行され続けた。それらの内容・刊行情報については、高橋紘・小田部雄次・所功・米田雄介「昭和天皇新資料解題」皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(角川書店)にまとめられている。更に『実録』刊行後、令和に入っても、古川隆久・茶谷 誠一・冨永望・瀬畑源・河西秀哉・舟橋正真編『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全七巻が刊行され、『実録』に用いられた侍従長百武三郎による『百武三郎日記』及び関連資料が公開されている。
昭和天皇は、その生涯で約1万首の御製(和歌)を詠まれたとされるが、それをまとめた
ものとして、毎日新聞社編『みやまきりしま 天皇歌集』(毎日新聞社)、木俣修編『あけぼの集 天皇皇后両陛下御歌集』(読売新聞社)、宮内庁侍従職編『おほうなばら 昭和天皇御製集』(読売新聞社)、宮内庁編『昭和天皇御製集』(講談社)が出版されているが、これらに掲載された御製を『実録』の情報で補い、また平成31年(2019)に発見された270余首の御製草稿も含めた所功編『昭和天皇の大御歌』(KADOKAWA)がある。
また昭和天皇については、写真・映像資料が多く残されているが、写真集としては『素顔の昭和天皇』(朝日新聞社)、『写真集昭和天皇』(朝日新聞社)、『私たちの昭和天皇』(学習研究社)のほか、毎日新聞社編「崩御昭和天皇 激動87年のご生涯のすべて」『毎日グラフ』緊急増刊第2045号など、多くの雑誌で、崩御直後に特集号が刊行された。さらに、特定のテーマによるものとして、前坂俊之編『写真集 昭和天皇巡幸 昭和二十一年〜二十九年』(河出書房新社)がある。
また、映像については皇太子時代の御成婚から崩御まで、多くの映像がNHKに残されており、インターネット上のデジタルアーカイブスで検索すれば、視聴することができる。また、教育映画として製作された『蘇る昭和の記録 昭和天皇とその時代』(全二巻)が現在youtubeで公開されている。このほか、保阪正康監修『昭和天皇の時代』全六巻(ユーキャン、DVD)がある。さらに、玉音放送などの音源については宮内庁ホームページで公開されている。
さらに、東京都立川市には昭和天皇記念館が存在し、昭和天皇の生物学ご研究や昭和天皇ゆかりの資料が展示・紹介されている。(久禮旦雄)
NHKアーカイブス
https://www.nhk.or.jp/archives/
ETV特集「侍従長が見た戦争」紹介ページ

昭和天皇とその時代第一巻 企画・製作 日本記録映画社(NPO法人科学映像館)


宮内庁ホームページ「当庁が管理する先の大戦関係の資料について」
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/index.html
昭和天皇記念館
https://f-showa.or.jp/museum/