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「平成」の理想体現に邁進された象徴天皇

令和5年9月1日

                                          所  功

  待望の「皇太子さま、お生まれなった」

 明治以降の『皇室典範』では、皇位の継承者を「祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子」に限定している。しかし、大正13年(1924)皇太子裕仁親王は、良子女王との間に、皇女(内親王)を四方次々もうけられたが、即位後も皇子に恵まれず、皇太子不在となった。
 けれども、昭和8年(1933)の12月23日午前6時39分、お健やかに「皇男子」が誕生された。よく聞く話だが、私の母(当時22歳)も、そのころ岐阜の勤務先で、朝早くサイレンが2回鳴るとともに、北原白秋作詞・中山晋平作曲の「皇太子さま、お生まれなった……」という明るいメロディの奉祝歌が、ラジオから流れるのを聴き、みんなでバンザイを唱えたという。
 その御名は明仁(あきひと)、称号は継宮と、父君から命名された。出典は、慣例の漢籍ではなく、明治三年(1970)公布された「大教宣布の証書」に、「列聖相承けて之を継ぎ……治教上に明らかにして、風俗下に美(うるわ)し」とみえる。

  終戦後に「新日本の建設」への御決意

 それから12年後の昭和20年(1945)8月15日、わが国は、天皇の「御聖断」により終戦(停戦)を迎えた。この日、その「玉音放送」を日光の疎開先で聴かれた皇太子明仁親王は、穂積重遠東宮大夫(穂積陳重博士長男、民法学者)に勧められ、「新日本の建設」という題で次のような作文を書いておられる(木下道雄侍従次長『側近日誌』所引、文芸春秋社)。
 今度の戦争で、我が忠勇な陸海軍が陸に海に空に勇戦奮闘し……国民が忠義を尽くして一生懸命に戦ったことは感心なことでした。けれども、戦は負けました。……その原因は、日本の国力が劣ってゐたためと、科学の力が及ばなかったためです。それに日本人が、大正から昭和の初めにかけて、国の為よりも私事を思って自分勝手をしたために、今度のような国家総力戦に勝つことが出来なかったのです。
 今は日本のどん底です。……このどん底からはひ上がらなければなりません。それには、日本人が国体護持の精神を堅く守って……国民全体が今よりも立派な新日本を建設しなければなりません。……それも皆、私の双肩にかかってゐるのです。それには、先生方・傅育官(ふいくかん)のいふ事をよく聞いて実行し、どんな苦しさにもたへしのんで行けるだけのねがり強さを養ひ、もっともっとしっかりして、明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになり、日本を導いていかなければならないと思ひます。
 すなわち、まず今度の大東亜(太平洋)戦争で前線の軍人も銃後の国民も一生懸命に頑張ったことを評価され、ついで、それにも拘らず負けた原因を冷静に分析して、その対策を明確に指摘され、そのうえで、さらに御自身の役割を鋭く認識し、その実現に向けての強い御決意を示されている。当時まだ初等科六年生の少年皇太子(11歳)が、すでに堂々たる御見識を備えておられたのである。
 そのあと、学習院の中等科(小金井)から高等科(目白)へと進まれた皇太子は、米国のE・バイニング夫人(児童文学作家・クエーカー教徒)から4年余り英語を学ばれた。その著書『皇太子の窓』(文藝春秋)によれば、「殿下は、自分に対しても他人に対しても正直であり謙遜である。……強い責任感と、日本及び日本国民への深い愛情……さらに、それなくしては其の偉大さがありえないあの資質-“惻隠の情”(思いやり)をもっておられる」との高い評価がみられる。
 また学習院大学(政経学部)在学中の昭和28年、皇太子(19歳)は英国エリザベス女王の戴冠式に参列の際、欧米十数か国を歴訪して見聞を広められた。それにも随行した東宮職御教育常時参与の小泉信三博士(慶應義塾元塾長)は、数年にわたって毎週2回、皇太子と二人で和漢の名文を音読したり、『国王ジョージ五世伝』の原書も訳読している。
 その影響は大きく、たとえば皇太子は小泉参与の話した『論語』にみえる「忠恕」(ちゅうじょ)を「座右銘」とされ、「自分の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神」こそ「非常に大切」と語っておられる(薗部英一氏『新天皇家の自画像』文春文庫)。

  「内平外成」のため多様な公務・祭祀に御精励

 やがて昭和34年(1959)年4月、皇太子(25歳)は正田美智子嬢(24歳)と結婚され、その間に二男一女をもうけられた。さらに30年後の同64年1月、第125代の天皇として践祚されたのである(即位礼と大嘗祭は翌年11月に東京で)。
 その御代初めに元号(年号)が「昭和」から「平成」へと改められた。出典は『史記』に「内平外成」(内平らかに外成る)、『書経』に「地平天成」(地平らかに天成る)という名言がある。文意は、政府が「新しい元号の平成は、国の内にも外にも天にも地にも平和が達成されますように、との理想をこめたもの」と説明している。
 この遠大な理想の実現に向けて、爾来三十年余り、ひたすら邁進してこられた。その御手本が父君にあることは、即位礼の御言葉でも「御父昭和天皇の……いかなるときも国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつゝ……日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と誓っておられる。
 しかも、それを具体的に実行するため、日本国および国民統合の「象徴天皇」として、皇居における御公務(内政・外交に不可欠な国事行為など)や伝統的な宮中祭祀はもちろんのこと、皇后陛下を伴い国内外への行幸啓なども極めて熱心に取り組まれている。御即位以来15年で全都道府県を一巡し、さらに海外も40数か国を訪れ、多くの人々と交流を深めてこられた意味は大きい。
 とりわけ感銘深いのは、現に活躍している人々だけでなく、すでに亡くなったり苦しんでいる方々への思いを大事にしておられることである。たとえば、毎年8月15日の全国戦没者追悼式への御親拝、また長崎・神戸・新潟など震災地への御見舞い、さらには被爆地の広島・長崎や激戦地の沖縄・硫黄島・からサイパン島への慰霊御巡拝など、数え切れないほど多い。ちなみに、それぞれの機会に述べられた御言葉や詠まれた御製は、宮内庁編『道』(NHK出版)などに収められている(皇后陛下の御言葉や御歌は宮内庁侍従職編『歩み』海竜社刊所収)。
 これらの報道や御本を通して実感できるのは、平成の天皇陛下がまさに国の内外にも天地にも真実の「平和が達成されますように」と祈りながら、その実現に向けて皇后陛下や他の皇族方と共に、日々努力を重ねておられることである。それが歴代天皇の御心であり御姿でもあったといえよう。
 さらに、平成25年(2013)、皇后(現上皇后)陛下は10月20日に満79歳となられ、天皇(現上皇)陛下は12月23日に満80歳を迎えられた。この数年間に政治も経済も激動し、未曽有の東日本大震災などが起きたにも拘わらず、日本人の大多数が安心しておれる要因は、両陛下が常に国家・国民全体の平安を祈られ、あたかも親が子を思うように私どもを心から慰め励ましてくださるからであろう。
 陛下は歴代天皇の御心を受け継いで、多様な公務にも祭祀にも精励されてきた。たとえば神嘉殿の新嘗祭には、夕(よい)の儀と暁(あかつき)の儀に合計4時間近く奉仕なさる。そのために平生から「正座してテレビを見て」おられ、それは「足のしびれや痛みなどに煩わされず、前向きで、澄んだ、清らかな心で祭祀を執り行いたいと考えているからだとおっしゃっ」ておられるという(渡邉允元侍従長『天皇家の執事』文春文庫)。
 この天皇陛下が宮中三殿でなさる祭祀のいくつかには、皇后陛下も御正装を召して拝礼をされる。そのお取り組みについて、平成25年の御誕生日に「明治天皇が“昔のてぶり”を忘れないようにと、御製で仰せになっているように、昔ながらの所作に心を込めることが、祭祀には大切ではないかと思い、だんだんと年をとっても、繰り返し(神々の)大前に参らせて頂く緊張感の中で、そうした所作を体が覚えていてほしい、という気持ちがあります」と述べておられる。
 ※明治43年(1910)御製「わが国は 神のすゑなり 神まつる むかしの手ぶり 忘るなよゆめ」
 ただ、80歳代に入るころから「象徴天皇としてのお務め」を自身で十分に果たすことが困難になると懸念され、次世代の皇太子に譲位する決意を固められた。
 そのご意向を承けて平成29年(2017)制定の『皇室典範特例法』に基づいて、同31年4月末で退位し、上皇として上皇后と共に赤坂御用地の仙洞御所で静かに余生を送っておられる。

【補注】
研究進展が望まれる平成の天皇陛下のご事績
平成の天皇(現・上皇)陛下については、多くの史料が残されており、さまざまなメディアにも膨大な記録がある。また「象徴天皇」のあり方を模索された歩みについては、近年研究が蓄積されているが、それらの整理と研究は今後の課題といえよう。
平成の天皇陛下と皇后(現・上皇后)陛下の御製・御歌やお言葉で刊行されたものとしては、宮内庁東宮職編『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』(婦人画報社)、薗部英一編『新天皇家の自画像―記者会見全記録』 (文春文庫) 、宮内庁編『道』(10年ごとに三冊、日本放送出版協会→NHK出版)、宮内庁編『宮中歌会始全歌集 歌がつむぐ平成の時代』(東京書籍)がある。科学者としての業績については宮内庁侍従職監修『天皇陛下 科学を語る』(朝日新聞出版)がある。また皇后陛下については、宮内庁侍従職監修『皇后陛下お言葉集 歩み(改訂増補版)』(海竜社)、『橋をかける―子供時代の読書の思い出』(文春文庫)がある。さらにお言葉の時代状況などを論じたものに山本雅人『天皇陛下の本心―25万字の「おことば」を読む―』(新潮新書)も参考になる。
写真を中心とした記録として代表的なものは、宮内庁侍従職監修『天皇皇后両陛下の80年 信頼の絆をひろげて』(毎日新聞出版)、同『御即位30年 御成婚60年 国民とともに歩まれた平成の30年』(同上)、同『天皇皇后両陛下 ともに歩まれた60年』(クレヴィス)、NHK出版編『天皇皇后両陛下 祈りの旅路』(NHK出版)などがある。
平成時代の特徴として映像資料が多く残されている。それらをまとめたものとして、『天皇皇后両陛下 素顔の50年』『皇室を伝える記録映像集』(NHKエンタープライズ)がある。また宮内庁作成・菊葉文化協会販売のDVDがあり、その多くは政府インターネットTVで無料視聴することができる。
このほか、平成時代に天皇陛下のお側近くに仕えた方々の回想録として、渡邉允『侍従長の十年半 天皇家の執事』 (文春文庫) 、川島裕『随行記 天皇皇后両陛下にお供して』(文藝春秋)がある。
平成時代の後半から令和にかけて、皇室のあり方について、多くの議論が交わされた。それらについては、所功・高橋紘『皇位継承 増補版』(文春新書)、所功『象徴天皇「高齢譲位」の真相』(ベスト新書)、同『天皇の歴史と法制を見直す』(藤原書店)、御厨貴『天皇退位 何が論じられたのか-おことばから大嘗祭まで』 (中公選書)などにまとめられている。
(久禮旦雄)
宮内庁 皇室紹介ビデオ(政府インターネットTVへのリンクあり)
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/koho/video.html