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「水問題」の専門家としても活躍中の今上陛下

令和5年10月1日

                                      所  功
  〝60年安保″最中に誕生された皇孫

 第126代の今上陛下は、即位から5年目の(2023)6月9日(満63歳)、雅子皇后との大婚30年(いわゆる真珠婚)を、揃って健やかに迎えられた。日本国民の一人として、心から慶賀を申し上げたい。
 しかしながら、その60余年にわたる歩みは、決して平坦でなく、山あり谷あり厳しい道のりであったとみられる。それを一つ一つ乗り越えて来られたからこそ、何ごとにもめげない強さと、あらゆる人々を思いやる優しさを、併せ持っておられるのであろう。
 誕生されたのは、昭和35年(1960)2月23日(午後4時45分)である。それから数え7日後「命名の儀」が行われ、祖父の昭和天皇(53歳)は、漢学者(宇野哲人・諸橋轍次両博士)の撰進した数案の中から、「皇后(51歳)・皇太子(26歳)・同妃(25歳)と御相談の上、ご決定になられた」。その出典は『中庸』三十二章にみえる次のような名文である(宮内庁編『昭和天皇実録』刊本13)。
肫(しゅん)々其仁、淵々其淵、浩々其天、苟不固(まこと)聡明聖知、達天徳者、其孰能知之。
〔試解〕肫(しゅん)々(精密)たるその仁、淵々(深淵)たるその淵、浩々(広大)たるその天、苟(いやし)も固(まこと)に聡明聖知にして天の徳に達する者ならざれば、それ誰か能く之を知らんや。
 そのころ、母妃(現上皇后)は「預かれる宝にも似てある時は吾子(あこ)ながらかひな(腕)畏れつつ抱く」と詠んでおられる。まさに皇祖・皇宗以来の皇統を継がれる「君」(日嗣の御子)が健やかに誕生され、浩々たる志をもって「天の徳に達する者」となることを期待され、御名を「徳仁」、幼称を「浩宮」と名づけられたのである。
 ただ、当時の国内事情は、日米安全保障条約の改訂をめぐる賛否両陣営の対決が激しく、騒然としていた。しかも、同年ある総合雑誌に深沢七郎氏(46歳)のショッキングな短編小説が掲載された。それは『風流夢譚』と題して、昭和天皇を「ヒロヒト」、前年結婚された皇太子妃を「ミッチー」と呼び捨て、東京で起きた暴力革命のため、天皇も皇后も皇太子も同妃も首を切られ、それを見ていた「労働者」が嘲り笑う、という酷い作り話である。
 その背景には、革命のために「天皇制打倒」を信条とする人々の発言力が強く、皇室尊重論者の江藤淳氏(26歳)すら、これを文学作品とみなし、「大胆な着想と奔放な幻想」の問題作と批評したに留まる(『全文芸時評』新潮社)。しかし、このような心無い小説によって、皇室の方々がどれほど辛く悲しい思いをされたか、はかり知れない。
 このような風潮は、その後も十数年続き、昭和天皇だけでなく、皇太子・同妃に対して不当な非難・批判が続き、また浩宮・礼宮・紀宮さまへのいやがらせなども少なくなかった。

  御両親発案の重要な帝王学(象徴学)

 その間に、浩宮さまは学習院の幼稚園・初等科・高等科へと進まれた。しかしながら、戦後の学習院は、皇族のため特別な配慮をしなくてもよい一私立学校となっていた。そこで、浩宮さまの帝王学(象徴学)は、昭和天皇を御手本としながら、皇太子・同妃が工夫し実行しておられる。
 たとえば、父君の皇太子(現上皇)は、終戦時より四年近く東宮大夫兼東宮侍従長を務めた穂積重遠博士(1883~1951)や、東宮御教育常時参与の小泉信三博士(1888~1966)などの影響もあって、早くから『論語』を愛読された。そのためか、のち(昭和58年)に「座右銘」として「忠恕(ちゅうじょ 誠実・真心)をあげ、「自己の良心に忠実で、人の心を自分のこのように思いやる精神」が人にも国にも大切だ、と述べておられる(薗部英一氏編『新天皇家の自画像 -記者会見全記録』(文春文庫、平成元年による。以下同)。
 それゆえ、浩宮さまも初等科6年間(昭和41年~)、前述の宇野哲人博士から『論語』の素読・進講を受け続けられた。それを通じて「忠恕」の精神も学び取られたことであろう。
 ついで、中等科時代(同47年~)、父君はやがて「象徴」となる浩宮さまについて「人間として望ましい人格をつくることが第一」であり「国民のことを常に考える人になってほしい」と言われ、また母妃もより具体的に「将来、国際的視野を広められることになるので、この時期に、日本の歴史・文化史のような、その基になるものを学ばせたい」と述べておられる。
 しかも、浩宮さま自身、すでに幼いころから日本の歴史に関心を寄せておられた。その一因は、初等科の頃、東宮御所の庭で「偶然、縄文式土器と弥生式土器を発見し」たからだ、と後日(昭和55年)に語っておられる。
 さらに、父君は昭和52年(1977)、高等科二年生の浩宮さま(17歳)が「日本の文化・歴史、とくに天皇に関する歴史は、学校などで学べない」から「こちら(東宮御所)でやっていくことにしたい」との意向を示された。そこで、まもなく学習院大学の児玉幸多学長(1909~2007)と黛弘道教授(1930~2010)および東京大学の笹山晴生教授(1932~ )が、順次「天皇の歴史」を進講している。それを毎回ご両親も一緒に聴講されていたという。
 このような経緯を経て、浩宮徳仁親王は、昭和54年(1979)春、学習院大学の文学部へ進学されたが、当時も東宮御所で継続中の「歴代天皇の御事績」御進講に関して、翌年2月の記者会見で次のごとく述べておられる。
次の機会にお話を伺うことになっている花園天皇が、甥の皇太子量仁親王(のち光厳天皇)に与えられた『誡太子書』の中で、「徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなけらばいけない」と誡めておられることに、非常に深い感銘を覚えます。

  日英の「水運史」研究から「水問題」へ

 学習院大学では、文学部(日本史学科)と大学院(修史・博士課程)において、日本中世史の安田元久教授(のち学長)に師事し、そのゼミ旅行(史蹟調査など)などにも進んで参加された。
 とくに中世史を選ばれたのは、古代と近世の間にある「中世っていうのは一体どういう時代なのか」に興味をもち、「一生の学問というものを見つけたい」と、昭和55年(1980)2月、「成年式」の記者会見で述べておられる。それから2年後に提出された卒業論文「中世瀬戸内海水運の一考察」は、極めて完成度が高く、同年秋、専門誌『交通史研究』8号に掲載されている。
 その要旨は、のち(平成17年)『桜友会報』86号掲載のご講演記録が判り易い。すなわち、徳仁親王が「道」に興味を持つようになられたのは、赤坂御用地内に「鎌倉時代の道が通っていたことを小学生の時に知ったから」であり、また「小学校の高学年の折に母(美智子さま)とともに読破しました松尾芭蕉の『奥の細道』でさらに深められ」たという。
 そこで、卒論の史料には、京都の林屋辰三郎博士が古本屋で見付け、共同研究の成果を公刊した文安2~3年(1445~6)の『兵庫北関入船納帳』(中央公論美術出版、昭和56年)に注目し丹念に活用されている。これは東大寺領であった兵庫港の北関所(神戸市和田岬付近)に出入りする商船の積荷料(関銭)納付台帳である。その内容分析により、「兵庫北関への入港隻数、船籍が瀬戸内海沿岸全域に亘り、商品は塩・米・木材が三大物資であり、ここが京都の外港として最大規模をもつ港湾であった、ことなどを明らかにしておられる。
 ついで、大学院在学中の2年間(昭和58年秋・23歳から)英国のオックスフォード大学へ留学し、17~18世紀のテムズ川における水上交通の研究に取り組まれた。その実証的な研究成果は、「The Themes as Highway(交通路としてのテムズ川)」(Oxford University Press 1989)として纏められた。それらの業績に対して、まもなく名誉法学博士号を授与されている。
 また、数年後(平成5年)随筆『テムズとともに-英国の二年間-』(学習院教養新書。30年後の令和5年、紀伊国屋書店から復刊)を著された。これによれば、まずオックスフォード郊外のホール大佐邸に下宿して英語研修の特訓を受けた後、マートンカレッジの寮に寄宿して、日夜研究に励みながら、学内外で芸術活動やスポーツを楽しみ、また英国内の各地だけでなくヨーロッパの13か国を回って、特にノルウェー・オランダ・ベルギー・スペインなどの王室を訪ね親交を深められた。このように「自由な一学生として」の留学生活から多くのことを学ばれたが、「日本の外にあって日本を見つめなおすことができた・・・貴重な体験となった」と振り返っておられる。
 さらに、留学から帰国後(昭和62年)、ネパール王国を訪問された徳仁親王(27歳)は、ヒマラヤのポカラ郊外で「わずかな水を求めて多くの女性や子供たちが・・・水汲みというたいへんな仕事」に毎日黙々と勤(いそ)しんでいる姿を目のあたりにされた。その経験が「水問題を考える・・・原点」になった、と自ら述べておられる(後掲著書「はじめに」)
 それ以来、祖父帝の崩御、父君の即位に伴って皇太子となられた徳仁親王は、重要な公務に励む傍ら、「水問題」にも熱心に取り組んで来られた。その実績によって、平成15年(2003)「世界水フォーラム」の名誉総裁に推され、また同19年から8年間「国連 水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁を引き受け、毎回ご自身の研究成果を英語で講演されてきた。それらを集大成したものが、徳仁親王著『水運史から世界の水へ』NHK出版、平成31年4月)である。
 このご活躍は、令和に入って、新型コロナ禍の間でも続けられている。たとえば、平成3年(2021)6月の第5回「水と災害に関する特別会合」では、「災害の記憶を伝える -より強靭で持続可能な社会の構築に向けて」(オンライン)、また同4年4月、第4回「アジア・太平洋サミット」(熊本城ホールへ行幸)、さらに今年3月、第6回国連特別会では、「“巡る水”-水循環と社会の発展を考える」(ビデオ)と題して、世界的な視野から日本史上の具体例をあげながら、今後への示唆・提言まで行われ(宮内庁ホームページに和英両文も動画も掲載)、国際的に高く評価されている。
 なお、浩宮徳仁親王は、初等科の卒業作文として書かれた「21世紀からこんにちは」の中で、「日本史の教授」となり、学生たちと思い出の奈良を訪れる夢を明かされている。それが平成に入ってから実行し、まず学習院大学史料館の研究員として「牛車古図」などの共同研究に携わり、また学習院女子大学で学生たちに特別講義を十数回行われた。その最終回(平成31年1月)では、「史料と向き合う-四十年の研究生活を振り返って」と題し、自作のビデオ映像などを活用しながら明快に講述しておられる。

  雅子妃=皇后と支え合って三十年

 徳仁親王は平成元年(1989)1月、満29歳手前で皇太子となり、翌年2月、30歳の誕生日に「立太子の礼」を行われた。父君は25歳で結婚しておられるので、当然早くから「お妃」捜しが行われてきた。しかしながら、いずれ父君の後に皇位を継承される皇太子の相手は、極めて責任が重く、いろいろな要件があって容易に決めがたい。
 それに対して、5歳半下の礼宮文仁親王は、学習院大学の法学部に在学中、文学部心理学科の川嶋紀子嬢(同大学経済学部川嶋辰彦教授の長女)と出会い、昭和天皇の服喪が明けた平成2年6月に結婚して「秋篠宮」家を創立された。そして翌3年10月に長女眞子内親王(3年後に次女佳子内親王)を儲けておられる。
 その数年間、皇太子妃の最有力候補となり、平成5年(1993)6月9日、晴れて結婚されたたのは、皇太子(33歳)より3歳半下の小和田雅子嬢である。父上の恒(ひさし)氏(1932~ )が外交官として転勤するに伴い、モスクワとニューヨークやボストンで育ち、昭和56年(1981)入学したハーバード大学では、数理経済学を専攻する傍ら、「日本文化クラブ」を創めて日本文化の紹介に努めた。その4年後に東京大学の法学部へ学士編入した翌年(昭和61年春)、あこがれの外務省に入り、オックスフォード大学へ留学して研修を卒え、平成2年(1990)から北米局に配属され、優秀な外交官として活躍を始めた。しかし、英国留学中から皇太子お妃の最有力候補とみられ、やがて皇室に入る決意をされたのである。
 そしてご成婚後(平成6・7年)、お揃いで中近東諸国を公式訪問されたが、「お世継ぎ」誕生を求めるプレッシャーに悩まれていた。ようやく平成13年(2001)の12月1日、長女として敬宮(としのみや)愛子内親王が健やかに誕生された。けれども、明治以降と同じく現行の『皇室典範』でも、皇位の継承者は「皇統に属する男系の男子」に限定されているので、内親王では「お世継ぎ」となりえない。
 そのため、2年後(平成15年)12月、宮内庁の要職にある某氏すら、皇太子(43歳)と同妃(40歳)ではなく、秋篠宮家の文仁親王(38歳)と同妃(39歳)に「第三子を強く希望したい」、というような酷い提言をするに至った。それに深く傷つかれた雅子妃は、まもなく帯状疱疹を発して公務に出られなくなり、たまりかねた皇太子は、翌年5月「雅子の人格を否定するような動きもあった」と発言されざるをえなくなったのである。
 それ以降、雅子妃は「適応障害」と診断されて療養生活に入られた。その上、平成22年(2010)春から、学習院初等科2年生の愛子内親王が、心ない苛(いじ)めを受けて休みがちになった。すると、思い切って登下校に付き添われ、やがて母子とも徐々に元気を回復された。それを皇太子は、温かく見守りながら支え励まし続けられ、絆を一段と深められたとみられる。
 この皇太子徳仁親王は、同31年(2019)5月1日、父君(85歳)の後を継ぎ59歳で第126代天皇となられ、同妃(56歳)も皇后となられた。そして同年(令和元年)10月22日昼の「即位礼」には、宮殿の正殿中央(松の間)に据えられた高御座と御帳台に揃って登られ、ついで11月14日夜の大嘗祭も、滞りなく執り行われた。さらに伊勢の神宮と橿原の神武天皇陵および京都の明治天皇陵と東京八王子の大正天皇陵・昭和天皇陵への「親謁」(参拝)など、すべてお揃いでやりとげておられる。
 しかも、お二人のもとで育てられた皇女の愛子内親王は、令和2年(2020)12月、満20歳で「成年式」を挙げ、翌4年3月の冬休みに成年の記者会見を堂々と行われた。その中で、「両親と話をしておりますと、豊富な知識や経験に驚かされ・・・両親の物事に対する考え方や人との接し方などから学ぶことが多く」ある、と感謝しておられる。
 このように今上陛下は、雅子皇后と結婚して8年後に儲けた愛子内親王を立派に育て上げ、今年(令和5年)6月9日、大婚30年(いわゆる真珠婚)を迎えられた。それに先立って2月のご誕生日記者会見で、次のように述べられたことが、真に印象深い。
 「雅子が29歳半の時に結婚してから、その人生の半分以上を私と一緒に皇室で過ごしてくれ・・・多くのことを経験し、お互いに助け合って、喜びや悲しみを分かちあいながら、歩んで参りました。・・・雅子は、私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手になってくれていますし、愛子の日常にもよく気を配りながら見守っており、生活に安らぎと温かさを与えていることも、とても有り難く思っております。・・・」
 これは雅子皇后が、未だ外部で存分な活動の難しいけれども、内廷で妻として母としての役割を十分に果たされており、それが天皇にとって「日々の活動の支え」となっていることを率直に説明されたものと解される。このような御心が皇居内でも行幸先でも自然に示されておりそれによって多くの人々から信頼され尊敬される象徴天皇として大成されつゝあると拝される。
 この御代が、元号「令和」の理念どおり「令(麗(うるわ)しく)和(安らか)」な世となることを、ひたすら信じ念じてやまない。

【補注】メディアの多様化の中で、正確な情報・資料の整理・保存が求められる令和の天皇陛下の御事績
令和の天皇陛下については、本文で言及されたご著書『テムズとともに――英国の二年間』(学習院新書→紀伊国屋書店)、『水運史から世界の水へ』(NHK出版)がある。このほか、時々の「お言葉」は宮内庁のホームページ、また皇太子時代から取り組まれてきた論文や講演については『地学雑誌』『学習院大学資料館紀要』など学術雑誌のリポジトリで閲覧できるものも多い。
そのほか、お人柄をうかがえるものとして、東宮侍従を務めた浜尾実の『殿下とともに』(角川出版)や交友のあったアンドルー・B・アークリー『陛下、今日は何を話しましょう』(すばる舎)、記者によるものとして井上茂夫『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)、根岸豊明『新天皇 若き日の肖像』 (新潮文庫)などがある。
新天皇即位に際しては、多くの写真集や雑誌特集が刊行された。代表的なものとして、朝日新聞社『令和 即位の礼 豪華記念写真集』(朝日新聞出版)、『令和の両陛下―「即位の礼」記念』(読売新聞社東京本社)、『「皇室」別冊 令和のご大礼 ご即位の諸儀式の記録』 (扶桑社)、『令和の天皇陛下と雅子さま』 (メディアックス)などがある。
また、その天皇皇后両陛下のお言葉に注目したものとして、『令和の天皇陛下と雅子さま お言葉編』(メディアックス)がある。
最近では毎日新聞社編『新しい時代とともに 天皇皇后両陛下の歩み 御即位5年 御成婚30年』(毎日新聞出版)が刊行された。
映像では、宮内庁の制作による、即位に伴う祭祀・儀礼や時々のご動静について、映像が制作され、政府インターネットTV「皇室チャンネル」で無料視聴することができる。
多様化するメディアの中で、令和の皇室について正確な情報を整理し、未来に残していくことは我々国民にとっても重要な課題であると言えよう。(久禮旦雄)