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大和朝廷の成立年代に関する推考

令和6年2月1日

                                     所  功
1、「日本の天皇は、二千年ほど前から今日まで126代続いている」と、近年は当然のごとく言う人が多い。現に私もほぼ同様の見解であり、これを前提として、日本の歴史は皇室を中核として形成され変転を重ねてきた意味を考えることが望ましいと思っている。
2、ただ、戦後日本の古代史学界では、明治の初め以来『日本書紀』の編年により、神武天皇の即位元年(西暦前660)を建国の起点と定めた「紀元節」への反動から、8世紀初めに編纂された『古事記』と『日本書紀』の系譜・伝承まで否定するような論調が支配的となり、それが今も一部に残っている。
3、確かに、神武天皇の即位元年を古代中国から伝来した「讖緯説」(1元=60年ごとの辛酉年に変革が起こり、特に21元=1260年で「大変革命」が起きるという数理予言説)により、推古天皇9年(661)から21元=1260年前の辛酉年に紀元元年を設定したのは、強引な作為であり、史実とは関係がない。
4、しかし、その点を除けば、記紀の伝承内容は、神話にすら史実が投影されているとみられる。まして神武天皇以下の記事は、記紀の編纂者が、複雑な建国物語(それだけに異伝も多く混乱していた)を整理したものと考えられる。
5、しかも、戦後著しく進歩した考古学による発掘と分析の成果は、おおむね記紀の伝承を裏付けるものが続出している。とりわけ埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した刀剣の銘文により、5世紀中頃の雄略天皇に仕えた8代前の先祖としてオホヒコ(大彦命)が確認された意味は、極めて大きい。
6、この大彦命は、甥の第10代崇神天皇に命じられて、北陸から東国まで遠征したと伝えられる皇族将軍である。その崇神天皇(大王)が君臨された宮殿と考えられる3世紀前半の大型建物遺構が、奈良県桜井市の纒向遺跡から発見された。その遺跡では、交易圏の本州各地方から集められた多様な器物や食物物が次々と発掘されている。
7、従って、3世紀前半には、崇神天皇により中央の大和(奈良)から国内各地の統一が進められていたと認められる。しかも、その基を拓かれたのは、1代30年ほどと仮定すれば、1世紀初めころ(約二千年前)、九州の日向あたりから畿内の大和へ東征して、現在の橿原・桜井両市にまたがる磐余(いわれ)のあたりに拠点を築かれた、と伝えられる初代の神武天皇(カムヤマトイハレヒコノミコト)、と推定して大過ないと考えられる。
8、とはいえ、明治の初めに定められた「紀元節」を受け継いで、昭和41年(1966)に「建国記念の日」(建国の日は不明で特定し難いが、建国を記念するにふさわしい日)として2月11日が「国民の祝日」に加えられた。その日は「建国をしのび、国を愛する心を養う」と法文に明記されており、それを学校教育でも的確に伝える努力が望まれる。