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大元帥陛下の軍人勅諭と日清・日露の大戦争

平成30年6月30日

大元帥陛下の軍人勅諭と日清・日露の大戦争
         道徳科学研究センター教授(研究主幹) 所 功
*陸海軍人に賜った五か条の勅諭
 明治22(1889)年2月11日に発布された「大日本帝国憲法」は、第1章を「天皇」とする。その第4条に「天皇は国の元首にして統治権を総攬し……」と定めるのみならず、軍事大権を次のように明文化している。
  第十一条 天皇は陸海軍を統帥す。
  第十二条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む。
  第十三条 天皇は戦を宣し和を講じ及諸般の条約を締結す。
 すなわち近代の日本では、古代の律令制よりも積極的に天皇の政治的な大権と軍事的な大権を明文化して、天皇は陸軍も海軍も統帥する「大元帥陛下」であり、天皇の御名により開戦も講和も行うことになったのである。
しかも、これに先立って、若き天皇のもとでスタートした新政府は、明治初年から士農工商などの身分を廃止する(四民平等)と共に、成年男子に兵役の責務(国家を守る名誉な役割)を課した(国民皆兵)。世界の列強に伍して独立を全うするには、一部の士族ではなく、国民こぞって対峙する必要があったからである。
 明治15(1882)年1月、このような多くの兵たち(陸海軍の軍人)に、天皇から下賜されたのが「軍人勅諭」である。全文かなり長いが、前段で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝等を股肱(玉体を支える手足)と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ、其親は特に深かるべき。……」と君民一体を説いたうえで、次のような五か条の「教へ諭すべき事」を示している。
  一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
  一、軍人は礼儀を正くすべし。
  一、軍人は武勇を尚ぶべし。
  一、軍人は信義を重んずべし。
  一、軍人は質素を旨とすべし。
 そして末尾で「之を行わんには一の誠心こそ大切なれ。……心だに誠あれば何事も成るものぞかし。……」と諭されている。
これは軍人だけでなく一般国民も大切にすべき基本的な道徳規範と言ってよいであろう。

*大国の清とロシアに勝利できた要因
 この勅諭を下された明治天皇は、全軍人の頂点に立つ大元帥として、陸海軍の大演習などに各地へ出かけ、豪雨の中でも熱心に視察しておられる。
 やがて明治27(1894)年、朝鮮で起きた東学党の乱をめぐって日本と清国が対立し、8月、開戦するに至った。天皇は何とか戦争を避けようと努められたが、宣戦後は必勝を祈り、広島に大本営が置かれると、士気を鼓舞するために進んで単身赴任された。
その仮御座所にされた師団司令部の質素な一室で、7か月あまり、側近と寝食を共にしながら執務に励まれ、戦地から戦死者の名簿が届くと、夜中まで一柱ずつご覧になり、前線や遺族にも思いを馳せておられる。
 この日清戦争では、24万あまりの将兵が敢闘し、1万5千柱近くの戦死者を出したうえで、日本の勝利に終わった。しかし、ロシアの呼びかけでフランス・ドイツの3国が、日本領となった遼東半島を清国へ還付するよう干渉してくると、それは呑まざるをえなかった。そこで〝臥薪嘗胆〟を合言葉に軍備を強化しながら、同35(1902)年には「日英同盟」を結び、ロシアの南満州占領を機に、同37(1904)年2月、宣戦布告した。
 強大なロシアとの大戦争では、約110万の将兵が大戦を闘い抜き、8万5千柱近い戦死者を出したが、奇跡的な勝利を収めた。
それを可能にした最大の要因は、明治天皇の将兵に対する深いご信頼と、将兵たちの大元帥陛下に対する強い忠誠心であろう。
 こうした二度の対外大戦争を経て、日本の国際的な評価が高まり、いわゆる産業革命も進んだ。しかし、それに伴い官民共に緩みと驕りが生じ、社会主義運動も盛んになった。そこで、まず皇室の方々が慈善活動にますます力を入れられ、また同41(1908)年10月には「上下心を一にし、忠実業に服し、勤倹産を治め……」との「戊申詔書」が出された。
明治天皇が果たされた役割は、晩年(60歳近くで崩御)に至るまで、きわめて大きい。
*明治天皇の御製 (現存九万三千三十二首の中より)
わが国のためをつくせるひとびとの 名も武蔵野にとむる玉垣(明治7年)
かずしらず仇のきづきしとりでをも いさみてせむる銃のおと(明治28年)
西の海なみをさまりて百千船 ゆきかふ世こそたのしかりけれ(明治29年)
国のためあだなす仇はくだくとも いつくしむべきことな忘れそ(明治37年)
戦のにはにたふれしますらをの 魂はいくさをなほ守るらむ(明治37年)
たたかひに身をすつる人多きかな 老いたる親を家にのこして(明治37年)
寝ざめしてまづこそ思へつはものの たむろの寒さいかがあらむと(明治37年)
国のためいのちをすてしもののふの 魂や鏡にいまうつるらむ(明治38年)