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少年皇太子明仁親王のご覚悟とご修養

平成30年10月30日

       道徳科学研究センター 教授・研究主幹 所 功
*終戦直後のご作文「新日本の建設」
 今上陛下は、昭和8(1933)年12月23日土曜日朝、昭和天皇(32歳)と香淳皇后(30歳)との間に、ご成婚から10年目、待望の第一皇子として誕生された。『昭和天皇実録』に「身長五十七センチ……三千二百六十グラム」とある。
 この皇太子明仁親王(称号継宮つぐのみや)は、健やかに成長されたが、時局はだんだん戦争状態となり、昭和20(1945)年8月15日、学習院初等科6年生で疎開先の奥日光において、父君の玉音放送を聞かれた。
 その際、当時の東宮大夫兼東宮侍従長穂 積重遠博士(穂積陳重博士長男、62歳)から「終
戦詔書」の説明を受けられた少年皇太子(11歳)は、「新日本の建設」と題する次のような作文を書いておられる。
 今度の戦で……国民が忠義を尽くして一生懸命に戦ったことは感心なことでした。けれども戦は負けました。……その原因は日本の国力がおとっていたためと、科学の力が及ばなかったためです。……
 今は日本のどん底です。……これからは……日本人が国体護持の精神を堅く守って一致して働かなければなりません。……
 それも皆私の双肩にかかっているのです。それには……どんな苦しさにもたえしのんで行けるだけのねばり強さを養い、もっともっとしっかりして明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いて行かなければならないと思います(木下道雄侍従次長『側近日誌』文藝春秋所収)。
 まさに的確なご認識、健気なご決心である。このご覚悟を原点として、「どんな苦しさにもたえしのんで行けるだけのねばり強さを養い」続けてこられたものと拝される。
 ちなみに、穂積博士は父君同様に『論語』を愛好され、まもなく『庭訓論語』(のち『新訳論語』講談社学術文庫)を著された。その教えを受けられた皇太子殿下は、のち(昭和58〈1983〉年、50歳)「好きな言葉」として「論語の一節に『夫子の道は忠恕のみ』とあり、自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です」と述べておられる(薗部英一編『新天皇家の自画像』文春文庫)。
*小泉信三博士御進講の〝帝王学〟
 その後、学習院の中等科・高等科から大学へと進まれた皇太子殿下のために、昭和24(1949)年から小泉信三博士が東宮職のご教育常時参与を17年間(61歳~78歳)務められた。その当初の「御進講覚書」(『アルバム小泉信三』慶應義塾大学出版会所収)に次のごとく記されている。
 悲かなしむべき敗戦にも拘らず、民心は皇室をはなれぬのみか……却って相近づき相親しむに至った……その(理由の)大半は、陛下(昭和天皇)の御君徳によるものであります。……殿下に於て、この事を深くお考えになり、皇太子として、将来の君主としての責任を御反省になることは、殿下の些かも怠る可べからざる義務であることを、よく御考えにならねばなりませぬ。……
 君主の人格、その識見は、自ら国の政治によくも悪くも影響するのであり、殿下の御勉強とは修養とは、日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし。
 注意すべき行儀作法/気品とディグニチイ(威厳)は間然すべきなし(批判の余地がないこと)/To pay attention to others(他の人々に注意を払うこと)/人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言うこと/Good manner(良き礼儀)の模範たれ。
 このようなご訓戒は、その後の成長過程でだんだんと修得され、今に至るまで見事に実
践されている。しかも、かような帝王学(陛下は〝象徴学〟とおっしゃる)を次世代にも伝える必要があると考えられた。特に昭和52(1977)年、高等科1年の浩ひろの宮みや(現皇太子)殿下が「自分の立場を自覚して、皇室の歴史を貫く仁の心を身につけ」られるよう、東京大学や学習院の教授を定期的に招かれ、歴代天皇のご事績を一緒に学んでおられる。
 今上陛下のお手本は、こうして学び取られたご歴代のご聖徳であり、とりわけ父君・昭
和天皇のご事績だと拝察してよいであろう。