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新元号「令和」の来歴と意義

平成31年4月29日

新元号「令和」の来歴と意義    
                                  京都産業大学 准教授 久禮旦雄

 平成三十一年(二〇一九)四月一日、「令和」元号が発表された。これは政令として公布するため、今上陛下の御名御璽(署名・押印)をいただき、五月一日、新天皇の即位される日の零時から施行される。その出典や意義については、既に菅内閣官房長官・安倍総理大臣の会見において述べられ、その後も多くの報道があり、選考過程や未採用年号なども明らかになってきている。それらも踏まえて、ここで新元号「令和」年号の来歴と意義について述べておこう。

   一、予想外の出典に驚き
 四月一日、私(久禮)は日本テレビの報道特別番組に、皇室ジャーナリストとして知られる久能靖氏とともに参加し、「平成」改元の時の裏話を久能氏からうかがったり、過去の元号について司会者の質問に答えたりしながら、元号の発表を待っていた。
 当初、有識者懇談会が予想より早く終了したため、時間を繰り上げての発表になるかと思われた。しかし、閣議が長引き、更にその結果を天皇陛下・皇太子殿下に報告する必要があったため、結果的に予定より少し遅れて菅官房長官の記者会見が行われることとなった。その後、政令案に天皇の署名をいただいている(朝日新聞四月三日報道など)。
 そこで、新元号は「令和」、その出典は『万葉集』との発表があり、正直少し驚いた。元号は「平成」まで出典は漢籍であった。しかし、今回に関しては国書(日本古典)から採用するという報道もあり、その可能性は高いと考えてきた。
 これを、安倍総理の個人的判断のようにみる報道もあったが、それは少し違うように思われる。昨年春、文春新書から共著で出版した『元号 年号から読み解く日本史』に所功京都産大名誉教授が紹介しているとおり、すでに昭和五十二年の「元号法」制定の際、衆議院で参考人として意見を述べ、その後、元号案の作成も委嘱された可能性が高いとされる、坂本太郎東京大学名誉教授が、日本古代史・『日本書紀』の研究者として、次の元号案は日本の古典からとってもいいのではないか、と発言している。それを、坂本氏が中心となった日本書紀研究会で聞いた日本漢文学研究者の小島憲之大阪市立大学名誉教授(当時は教授)が、『日本書紀』にある聖徳太子の十七条憲法、あるいは嵯峨天皇の漢詩からとってもよいのではないかと述べている(読売新聞政治部編『平成改元』行研)。残念ながら坂本氏は「平成」改元前に死去されたため、その元号案が検討されることはなかったようだが、幻の坂本案が国書から採られていた可能性は高いと思われる。また、平成改元の際にも、市古貞次国文学研究資料館初代館長が元号案の作成を委嘱されたといわれており、国書から採用しようという動きはかなり以前から存在していた。
 また、昭和四十四年(一九六九)にお生まれになった紀宮清子内親王(現・黒田清子さま)の称号とお名前、その読み方(さやこ)はいずれも『万葉集』に由来するもので、平成十二年(二〇〇七)に崩御された香淳皇后の追号も奈良時代の漢詩集である『懐風藻』からとられている。
 しかし、それでも私は、小島氏の指摘をふまえ、『日本書紀』、あるいは嵯峨天皇の漢詩を含む『凌雲集』などの平安時代初期の漢詩集からとられる可能性が高いと考えてきた。一部の報道で名もあがっていた『万葉集』の中には「序」や「左註」など漢文も含まれていることは知っていたが、従来のような国家観や政治的理念を示す言葉があるとは考えにくかったからである。
 その後、菅官房長官・安倍総理から説明があったように、これは『万葉集』巻五の「梅花の歌三十二首 并せて序」の「時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す」を出典とするもの(官房長官会見)で、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められて」いる(総理談話)という。
 出典が国書であることのみが強調されがちだが、後述するように、出典・意味ともに、従来のような政治的理念とは異なる、文化的な内容となっていることも今までとは異なる点である。

   二、「令」の意味をめぐって
 発表直後、「令」を含む未採用年号があったことを思い出したので、日本テレビ・NHKの解説で言及しておいたが、時間の関係から簡単なものだったので、所功『年号の歴史』及び同編『日本年号史大事典』(共に雄山閣)と『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書)の吉野健一 京都府教育庁文化財保護課副主査の執筆部分を参考に、少し詳しく述べておこう。
 かつて、幕末の「文久」(一八六一)・「元治」(一八六四)の改元の際、「令徳」という元号案が提出されており、「元治」の際には、ほぼ採用直前まで至っている。幕末のこの時期は、改元の主導権は朝廷に取り戻されつつあったが、しかし「令徳」については幕府から「徳川に命令する」という意味に読めるという反対意見があり、最終的に「元治」改元に至っている。しかし「元治」も、「元」のように「治」める、の意味であるから、朝廷中心の政治への回帰を告げるものであり、「徳川に命令する」という意味とそれほど違わないというオチまでついている。この時とりまとめに動いたのは「賢侯」として知られた越前藩主・松平慶永(春嶽)であった(『続再夢紀事』)。なお、のちの「明治」元号は明治天皇が賢所において、くじ引きで「聖択」して決定したが(『明治天皇紀』)、その際の候補案を選んだのも当時新政府で議定の地位にあった松平慶永である(『逸事史補』)。
 また「令和」発表直後から、「令」には「命令」のニュアンスがあるとされ、海外メディアでも「order」あるいは「decree」と訳し、外務省が「Beautiful Harmony=美しい調和」だと訂正する一幕もあった(毎日新聞四月三日報道など)。これについては、かつての「令徳」の例もあり、そのように解されるのも無理はない。
しかし、出典を見れば、「令月」(よき月)からとっているのだから、これは「よい」という意味(令息・令嬢・令名など)にとるべきである。中国最古の辞書とされる『爾雅』には「令、善也」とある。
 また、「令」が日本では「のり」と読まれ(訓読され)、為政者から「読み告げる」という意味を持ちながらも、道徳規範という意味も含んでいた(たとえば『論語』「心の欲する所に従へども矩(のり)を踰へず」)ことに注意しておきたい(廣池千九郎『東洋法制史序論』早稲田大学出版会)。
 国文学者の中西進氏は、聖徳太子の憲法十七条について、「…「服務規程」が「倫理規定」と一体となっているところに、十七条憲法の意味があるのです。憲法は日本語の〝のり〟に当てた漢字でしょう。法という以外にも〝律〟〝則〟〝規〟といった人の生きる道のような幅広い意味をもっています。…争いの連鎖をやめるための法令、そこに聖徳太子の示した〝和〟の理想があります。日本国家の中で、この〝和〟の理想はずっと続き、今も続いているのです」と述べている(中西進氏「国づくりと『万葉集』」同『うたう天皇』白水社)。

   三、東アジアの『万葉集』
 さて、もうひとつ、日本テレビ・NHKの解説、また直後の読売新聞・ジャパンタイムズや複数のラジオ番組の電話インタビューでは、手元にあった新日本古典文学大系(岩波書店)及び新日本古典文学全集(小学館)などをもとにその出典の持つ意義について述べた。それについても言葉が足りなかったところを補いつつ、書いておく。
 「令和」元号の出典となったのは「梅花の歌三十二首」に付された「序」であり、これは立派な漢文で書かれている。『万葉集』は前述したように、和歌の説明として歌ではない文章がかなり含まれており、それは立派な漢文により書かれているのである。
 「梅花の歌」は天平二年(七三〇)、大宰帥であった大伴旅人の邸宅で九州各地の官僚たちを集めて行われた「梅花の宴」で詠まれた歌をまとめたもので、「序」はこの一連の歌が詠まれた経緯について述べたものである。
 なお、旅人邸は伝承では現在の坂本八幡宮とされるが、その場所については議論がある(西谷正氏「大宰府研究の現在 万葉集と考古学」『上代文学』一〇七)。
既に江戸時代の契沖の『萬葉代匠記』に、この「序」は中国・東晋の王羲之が三月三日、上巳の祓の際に宴を行い、友人たちと詩を読みあったことを記した『蘭亭序』をもとにしていると指摘している。更に『蘭亭序』には該当する言葉がない「初春の令月にして、気淑く風和ぐ」の部分は、梁の昭明太子の『文選』に収められた後漢の張衡「帰田賦」にある「仲春令月、時和し気清し」をもとにしていることが、万葉集研究の成果として指摘されている。
 その意味では、広い意味での東アジアにおける漢字文化圏に属する作品であり、漢籍から選ぶという従来の元号案とも決して断絶はしていないといえよう。
当時の文学では、先行する作品を踏まえて、それを組み合わせることが高度な表現技法と考えられていた。『蘭亭序』や「帰田賦」自体も、先行する文章を踏まえて言葉を選んでいるところも少なくない。
この「序」を記したのは大伴旅人か山上憶良、あるいはその周辺の人物と推測されている。山上憶良は、大宝元年(七〇一)、中国に「日本」国号を認めさせた粟田真人の遣唐使に同行しており(粟田氏と山上氏は同祖関係にあったとされる)、その帰国時に、
  いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ
と詠んだ人物である。吉田孝氏は、この「日本」が従来「やまと」と呼ばれていることについて、日本国号を認められた喜びを表したもので「にほん」と詠まなければ「憶良がかわいそうだ」と述べている(吉田孝氏『日本の誕生』岩波新書)。また、大伴旅人と同族の大伴古麻呂は、天平勝宝四年(七五二)の遣唐使に副使として参加し、朝賀の儀式での席次が低いことを唐の役人に抗議して、改めさせている(『続日本紀』)。いずれも、中国文化の影響を同時代において最も強く受けながら、唐帝国の威光に臆することなく、主張するべきことは主張し得た人物である。当時の東アジア世界は、渤海国が勢力を伸ばし、神亀四年(七二七)には日本にも使者を派遣しており、白村江の戦い以降の国際関係の再編成が行われ、緊張が高まっていた。そのような中で、大宰府に派遣された旅人も、誇り高き武人であるとともに、唐や新羅を相手にしても臆さない教養人であったと思われる。この「序」も単に中国の文学を引き写したというようなものではなく、中国の先行作品をもとに、唐の文人にも負けないものを書こうという心意気で書かれたものと推測できる。
 なお、この「序」も含めて巻五には大伴旅人・山上憶良を中心とした「筑紫歌壇」の歌が多く収められている。その中に「倭歌に漢文の序をあわせる形をとっている」ものが多く含まれ、「こういう形式は…旅人がはじめて試みたものであった」(伊藤博氏『萬葉のあゆみ』塙新書)と指摘されていることは興味深い。いわば日本の歌と中国の文をあわせて一つの文学作品とするかたちが模索されているのである。
 ところで、この「序」も含めて『万葉集』には「梅」を詠む歌が多く、『古今和歌集』以降は「桜」が多くなる。これにより「和風化」が進んだとされるが、その後も実際には「梅」が詠まれ続けるのであり、そこに「古い文化も大切に残しながら、新しい文化も取り入れて両者の長所を可能な限り生かす」「和魂漢才」的な性格を読み取る研究者もいる(所功氏『日本歴史再考』講談社学術文庫)。『万葉集』五巻に含まれる旅人・憶良の歌の多くは、そのような「和漢」を並列するあり方を示すものといえよう。
 ちなみに、近年、菅原道真が遣唐使を廃止し、中国文化の影響から脱したので国風文化が発展した、というような歴史観はほぼ克服されている。遣唐使廃止以前から、すでに使節の往来はなくなっており、逆に民間商船の往来はこれ以前も以後も多く行われていた(河添房江氏『唐物の文化史―舶来品からみた日本』岩波新書)。このことから、「国風文化」という概念そのものを否定する研究者もいる。これに対し、唐滅亡後も民間商船の往復はあったが、そこで日本が重視したのは「唐」文化であり、それ以降の中国文化は重視されなかった。その一方で、貴族たちが「倭の国の中に、…見いだし、愛好するようになった(和歌などの)倭の世俗文化が、九世紀末以降、天皇たちによって高く評価されるようになり、唐文化と並ぶ、いま一つの貴族文化の柱となっていった」「分野によっては、唐文化と倭の世俗文化とがさらに交渉し、融合の度を深めていく」とし、これを「国風文化」と呼ぶべきとする見解も出されている(佐藤全敏氏「国風とは何か」鈴木靖民他編『日本古代交流史入門』勉誠出版)。この見解を踏まえるならば、和歌と漢文を並列する旅人・憶良の作品は「国風文化」、あるいは「和魂漢才」の遠い淵源と考えることもできるのではないだろうか。

   四、未採用年号案との比較から
 今回、更に驚いたのは、「令和」発表後、数日で、提出されたが未採用となった年号案が報道されたことである。これも翌日、日本経済新聞およびNHKのニュース9、テレビ朝日報道ステーションに電話インタビューで答えた内容をもとに、述べておきたい。
 最終的に「久化」「万保」「万和」「英弘」「広至」、そして「令和」が有識者懇談会と閣議で示されたわけだが、これは、各社の報道によれば、
  (ア)「久化」「万保」「万和」 漢籍を出典とするもの
  (イ)「英弘」「広至」「令和」 国書を出典とするもの
に分かれるという。そして(ア)はかつて提出されたことのある未採用年号であり、森本角蔵氏の労作『日本年号大観』(目黒書店)によれば「久化」は一回、「万保」は八回、「万和」は十四回候補となっている。一方、国書に基づく「英弘」「広至」「令和」は、使われたことのある文字(弘・至・和)と、使われたことのない文字(英・広・令)を組み合わせるというかたちで、「昭和」「平成」の伝統をくんでいることが読み取れる。
 なお、その出典であるが、森本氏の研究を参照すると、「久化」は『史記』にみえる「万邦和する」、「万保」は『毛詩』の「君子万年、其の家邦を保つ」、「久化」は『隋書』の(政治制度が)「簡にして久しかるべし 之を化する所盛ん」などから採られたと思われる。
 一方、日本の古典からとられたものについては、「英弘」は、太安麻呂によるとされる『古事記』の序文に天武天皇の業績をたたえ、「英風を敷き、以て国に弘む」、即ちすぐれた教化が国に広がっているとしている部分、また「広至」は、『日本書紀』欽明天皇三十一年四月乙酉条に、漂流民を助けた地方の豪族の行動について、「徽猷広く被らしめて、至徳魏々たり」、つまり、遠方から人がやってきて、しかもその命が助かったことは良い政治が広くこの国をおおい、天皇の徳が高きに至っていることを示すものだ、と天皇が述べられたというところに出典が求められるであろう。
 いずれも、新時代の理想とするのにふさわしい言葉と出典である。「令和」が文化的色彩を強めているのに対し、そのほかの元号案は漢籍・国書いずれも、従来の元号と同様の政治的な理想を示しているところに違いがあるように思う。あるいはそこに、ゆるやかな文化的結合のもとに、世界と自然との調和を目指していく、新時代の理想というものが示されているのかもしれない。これもまた、新しい先例として、今後継承されていくことであろう。

※本稿は、平成三十一年四月初頭にメモを作成・補訂し、四月十八日の夜に入力したものである。その間、四月十七日の読売新聞が掲載した、「令和」元号の選者として、四月初頭より目されていた国文学者の中西進氏のインタビューに、「令和」の「和」からは「十七条の憲法の第一条「和をもって貴しとせよ」を思い浮かべます」との発言があることは注目される(四月十九日記)(四月二十九日修正・追記)。